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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長・日本カトリック神学院教授 石井祥裕)
2026年9月13日 年間第24主日 A年 (緑)
七の七十倍までも赦しなさい  (マタイ18・22より)

十字架のキリスト
木彫
ドイツ ケルン大聖堂 970年代 

 10世紀の十字架磔刑のキリスト像である。写本画やモザイクでは、マリアや使徒ヨハネが両脇にいる構図が定型だが、このキリスト像は単独である。静かに死んでいく姿であり、その身の重さがだんだんに下に向かっていっている様子が実に巧みに表現されている。イエスの顔はあくまで静謐である。神の御子である救い主がその生涯の使命を全うした瞬間の感動をとどめている。この十字架のキリストをもって、きょうのミサの聖書朗読を味わうために、眺め続けてみたい。
 きょうの福音朗読箇所はマタイ18章21-35節、「ゆるし」「あわれみ」がキーワードとなっている内容である。先週の朗読箇所における、罪を犯した兄弟に対する忠告の勧めもそうだが、イエスに従う弟子としての生き方が続けて教えられていく。きょうの場合、冒頭で、自分に罪を犯した兄弟がいた場合に何回赦すべきかという問いが示され、それに対してイエスは「七の七十倍まで」という強調をもって、限りなく赦しなさいと答えている(18・21-22参照)。
 それに続いて、一つのたとえが語られる。かいつまんでいうと、主君から借金を帳消しにしてもらった家来が、自分に借金をしている仲間を容赦しなかったところ、主君が怒り、その家来を牢役人に引き渡した(18・23-34)というものである。このたとえの中で、返済を待ってほしい、と主君の前でひれ伏し、しきりに願う家来(26節参照)に対して主君は「憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)とある。ここで語られる「憐れに思う」という動詞(33節の「憐れんで」も同じ)は、しばしば解説されるように原語のギリシア語の文字通りの意味は「はらわたを痛める」である。旧約聖書のヘブライ語も背景にして、神が人の痛みや苦しみをともにし、いてもたってもいられずに助けようとする気持ちを表すことばである。ルカ福音書の放蕩息子のたとえ(ルカ15・11-32)でもキーワードとなっている(ルカ15・20)。「憐れみ」と訳されるこのことばのもとに、神の憐れみ、赦し、慈しみ、愛の心が凝縮されている。
 朗読箇所の末尾で、イエスは、このたとえに含まれる弟子たちへのメッセージを「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたと同じようになさるであろう」(35節)とまとめられている。これは、「赦さないなら」という場合の警告であるが、マタイには、反対の言い方が、主の祈りの教えのあとに語られている。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」(マタイ6・14)である。
 結局、これらのたとえを通して語られているメッセージは、「主の祈り」で願われている内容と対応する。「わたしたちの負い目を赦してください。わたしたちも自分に負い目にある人を赦しましたように」(マタイ6・12 新共同訳)=教会で唱えられる「主の祈り」の中の「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします」のところである。ここには、神の憐れみと赦しは限りない、という聖書の教える神の姿が根底にある。 
 第一朗読のシラ書27章30節~28章7節はまさしく、主の祈りの意味合いを解説している。「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求めるとき、お前の罪は赦される」(シラ28・2)、「自分と同じ人間に憐れみをかけずにして、どうして自分の罪の赦しを願いえようか」(同28・4)。肯定的な仮定、否定的な仮定の両面から説いているところも、マタイ全体の教えのかたちと似ている。答唱詩編で歌われる「神は恵み豊かに、あわれみ深く、怒るにおそく、いつくしみ深い」(詩編103・8 典礼訳)=「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」(同 新共同訳)は、そうした聖書においてあかしされている神のあり方に対する端的な信仰告白である。
 このような神の限りない憐れみ、慈しみの最大の現れが、御子の派遣であり、地上におけるその生涯の極みとしての十字架で自己奉献であろう。人類の罪深さ、その状態からの解放、そして、新たないのちにあずかっていくための道として、イエスは自らの十字架の道を歩んでいった。その歩みの成就が、このキリスト像のように静かに死んでいく姿のうちにある。十字架には神からの限りない赦しがある。そして、この赦しによって開かされる新しいいのちの次元が復活によって開かれる。
 イエスの弟子であるということは、この十字架の道に従っていくことである。その心を、第二朗読箇所のローマ書14章7-9節の文章は簡潔かつ力強く表明している。「生きるにもしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」(8節)。このような信仰告白には、やはり十字架のキリスト像が合っている。
 きょうの箇所が、マタイ福音書におけるイエスの第2の受難予告(マタイ17・22-23)の後に置かれていることにも、そのような関連づけが感じられよう。福音のどの教えも、イエスの十字架と復活に向かっていく。イエスが神について教えている、最も深く普遍的な内容は、十字架に凝縮され、そこで輝き続けている。このような関係性は、感謝の祭儀(ミサ)において「ことばの典礼」から「感謝の典礼」たえず記念され、現在化されている。自らをささげたキリストとの一致を通して、我々は絶えず限りない赦しと新たないのちを受けていく。
お詫びと訂正
入祭唱の見出し表記(本文は正しい表記)に下記の誤りがございました。お詫びして訂正いたします。
誤) 入祭唱(詩編119・137、124)
正) 入祭唱(シラ36・21参照)


 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(A年)●典礼暦に沿って』年間第24主日

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