| 2026年9月20日 年間第25主日 A年 (緑) |
主を尋ね求めよ、見いだしうるときに (イザヤ55・6より))預言者イザヤ フレスコ画 ラファエロ作 ローマ 聖アゴスチーノ教会 1511-12年 きょうの表紙絵には、第一朗読箇所イザヤ書55章6 -9節にちなみ、預言者イザヤを描くラファエロの絵が掲げられている。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」(イザヤ55・6 )という力強い民への呼びかけを聞くのにふさわしい、イザヤの姿であろう。 この絵の中のイザヤは両手で巻物を抱えつつ、まさに勢いよくこれを開こうとしているところである。そこにヘブライ語の本文の一部が見えている。見えている部分がどこか、聖書研究者の教示によると、イザヤ26章2-3節「城門を開け。神に従い、信仰を守る民が入れるように。堅固な思いを、あなたは平和に守られる。あなたに信頼するゆえに、平和に」(新共同訳)の部分である。このイザヤ書24-27章は「イザヤの黙示」と呼ばれる伝統があり、近年ではしばしば「カンタータ(詩編的歌)」とも呼ばれる(フランシスコ会聖書研究所訳聖書2011年版、旧約1909頁の注参照)。文体・語法・概念などが第 2イザヤ(40章~55章)に近く、それと同じく紀元前6世紀頃に著されたと考えられているという。そのような指摘も、この絵をきょうの朗読箇所と関連づけて味わうヒントになる。「神に従い、信仰を守る民は……平和に守られる」という趣旨は、「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(55・7)と響き合う。 ところで、第一朗読箇所の主題句は「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる」(イザヤ55・8)となっている。これがきょうの福音朗読箇所マタイ20章1-16節と関連づけられている理由である。確認してみよう。マタイ20章1-16節は、ぶどう園で働く人のたとえで、労働者・賃金・監督といった語が登場して、日給・時給といった制度に関連する内容である。短時間しか働かなかった人と長時間働いた人が同じ報酬であったと語られるところに不合理や理不尽を感じるという登場人物の思いは、我々にはわかりやすい。このような譬え話を通して、イエスは神のみ心を告げようとしている。「わたしの気前のよさをねたむのか」(15節)という主人の言葉がまさにそれである。「気前のよさ」という表現のうちに、あらゆる人を分け隔てなく招き、受け入れる、神の普遍的救済意志が象徴されている。 このようなイエスの意図は、まさしく第一朗読箇所のイザヤ書のことばによって鮮やかに告げられている。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(9節)と。神の思いは人には窺い知れないがゆえに、人はそれを求めなくてはならない。それゆえに「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」(イザヤ55・6)という呼びかけがなされている。ここの「尋ね求め」も「呼び求め」も、あてどのない探求ではない。むしろ、はっきりと示される神の招きに、人間の側が心を向けて気づき、それに応えようとする態度にほかならない。「主に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(イザヤ55・7)ことを悟り、「立ち帰ること」、「悔い改める」ことが求められているのである。神は「見いだしうる」方であり、「近くにいます」方なのである。 結局、きょうの教えは、イザヤ書のメッセージも含めて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4・17)のメッセージを詳しく展開するものと言える。我々の思いを超えた神の思いの前にして、自らを低くし、「気前のよさ」と語られる、神のみ心は山上の説教(マタイ5・3-12)で語られているところにほかならない。これらの教えはすべて主の祈り(同6・9-13)とも結びつく。「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように」(教会で祈られることば)――この祈りが、第二朗読箇所であるフィリピ書(1・20c-24、27a節)の呼びかけ――「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」(27a)にこたえようとする我々の支えであり、導きである。 |