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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年9月27日  年間第26主日  A年(緑)  
キリストは、……十字架の死に至るまで従順でした(フィリピ2・6、8より)

十字架のキリスト
板絵 コッポ・ディ・マルコヴァルド作
イタリア ピストイア大聖堂 1274年

 表紙の作品は、十字架型の板に描かれた磔刑のキリスト像で、イタリアで盛んに作られた十字架板絵の一例である。作者コッポ・ディ・マルコヴァルドは1225年から1230年の間頃にフィレンツェで生まれ、1280年頃同地で没した画家。有名なフィレンツェ大聖堂付属洗礼堂のドームのモザイク制作にも参加しているという。目を開け、身体をまっすぐに、真正面を見るイエスを描くタイプの十字架板絵とは異なり、この板絵では、頭を垂れ、目を閉じ、身体もよじれるように力を失っていく、まさに死につつあるイエスを描いたものとなっている。
 この作品の特徴は、イエスの身体の背後に、その生涯の主な場面を示す6つの絵が描かれていることである。向かって右側では、上から東方の三博士の来訪と礼拝、イエスの誕生、空の墓で天使が女性たちにイエスの復活を告げる場面が描かれている。向かって左側には、上から、イエスの逮捕、イエスへの虐げ、十字架降下の場面が描かれていく。左側が十字架での死をめぐる受難の出来事に集中しているとするなら、右側は、救い主イエスの誕生と復活という救いの出来事に集中しているといえる。十字架上で死にゆくイエスの背後に、その生涯全体を想起させつつ、その死と復活を通して、救いが決定的に訪れているというメッセージが鮮やかに浮かび上がってくる。
 きょうの福音朗読箇所はマタイ21章28-32節、「二人の息子」のたとえと呼ばれるものである。マタイだけが伝えるたとえで、父親の「ぶどう園へ行って働きなさい」という言葉に対して、「いやです」と拒否した兄が「後で考え直して」出かけたという態度が焦点となっている。先週読まれたたとえ(マタイ20・1-16)のテーマが続いていて、「徴税人や娼婦」を例示しながら、悔い改めた人間こそが「先に神の国に入る」(マタイ21・31-32参照)ことを教えている。全体として神の思いにこたえる悔い改めを求める教えで、先週の「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイ20・16参照)というメッセージに連なるものといえる。このメッセージを強めるのが第1 朗読のエゼキエル書18章28節である。そこでも「正しい人」が不正を行う場合と、「悪人」が悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れる場合を対比させ、やはり悔い改めを求める主の言葉が告げられている。
 このような教えと、イエスの受難はどのように関係してくるだろうか。きょうの表紙作品は、もちろん、第2朗読のフィリピ書2章1-11節に即したものである。この箇所のうち特に6-11節「キリストは、神の身分でありながら……(以下略)」は、受難の主日、十字架称賛の祝日にも第2 朗読として読まれる箇所である。十字架での死の意味を告げるこの箇所は、やはり福音の内容とも深く結びついていることを考えなくてはならない。実は先週の福音朗読箇所の「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ20・1-16)のすぐあとには、イエスの三度目の受難予告が記されている(マタイ20・17-19)。そして、マタイでは21章にエルサレムの入城が述べられる。神の思いがはるかに人間の思いを超えることの悟り、神の前で自分を低くし、悔い改めることの呼びかけの中で、イエスは宣教の旅の最後の局面であるエルサレムに入る。
 イエス自身のそのような態度と教えの結末が十字架であることは言うまでもない。神の国が近づいたとの福音がイエスの受難と本質的に関係している。イエスは身をもって神の国の到来、すなわち、神がともにいることを示し、その前に悔い改めることを呼びかけていった。悔い改め、素直に神を信じる人々には、すでに救いが告げられる。そして、フィリピ書のこの悔い改めと神の前でのへりくだりから、愛による一致が人々の間に実現することを告げている。そのへりくだりの極致として「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2・8)であったイエスを思い起こさせている。このことは聖書朗読の組み合わせが示す重要な点でないだろうか。きょうのフィリピ書の朗読は、福音朗読で先週、今週と展開されているたとえを用いてのイエスの教えの根底に流れている受難への歩みというもう一つのテーマをはっきりと照らしている。9月の福音朗読は半年離れた3月に展開される四旬節から復活祭への流れとちょうど対角的な位置にあって、受難のモチーフを併せ持っているといえる。
 そして、なによりも重要なのは、ミサはいつでも主の受難と復活、すなわち主の過越の記念祭儀であるということである。聖書朗読が示すメッセージは、つねに、キリストの死と復活に何らかの視点から関係している。そのことをあらためて意識して、きょうの福音、そしてことばの典礼全体を味わいたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

3 永遠のいのちの輝き
 わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14・6)。
 十字架の死を目前にしたイエスのこの言葉が指し示している道こそ、この世の生の苦闘を戦い抜き、最終目的地を目指す者たちにとっての歩むべき道であり、そこに開かれた人生の究極の姿こそ、この世の生を生きる者たちに示された、人生の究極の意味を指し示す真理です。

オリエンス宗教研究所 編『キリスト教葬儀のこころ――愛する人をおくるために』「第五章 いのちの交わりは死を超えて 3 永遠のいのちの輝き」本文より

 定期刊行物のコラムのご紹介

『聖書と典礼』年間第26主日(2020年09月27日)号コラム「日本で生まれ育った子どもたちの強制送還──『世界難民移住移動者の日』」

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