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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2020年11月01日  諸聖人  (白)  
心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る (マタイ5・8より)

山上の説教
オットー3世の朗読福音書 挿絵 
ミュンヘン バイエルン州立図書館 1000年頃

 きょうの表紙絵は、福音朗読箇所マタイ5章1-12節a の場面を写し出す朗読福音書挿絵である。962年に始まる神聖ローマ帝国最初の王朝オットー朝時代は写本画芸術の頂点をなす時代で、その作品群は20世紀の写真技術やメディアを通して今日、親しめるものとなっている。『聖書と典礼』でも表紙絵の主軸をなすものである。近代において通例化したイエスのイメージとは異なるがゆえの新鮮な印象は、尽きることがないのではないだろうか。
 この絵では、イエスの山上での説教を描くための工夫が興味深い。マタイの書き出しは「イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」(マタイ5・1)となっている。ここでは、弟子や人々(群衆)が二段に分けて描かれている。構成は小さなスペースの中に描くための工夫なのかもしれないが、弟子たちと他の人々を分けて描こうとする意図も感じられる。
 上段の真ん中にはすでに用意されている玉座にイエスが座している。光輪を伴い、救い主として尊厳が満ちあふれている。そして、この座は地面の少し小高いところにある。マタイが「山」と語るものを表している。イエスの両側にいるのは12人の弟子たちで、(向かって)左の先頭にいる白いあごひげを蓄えた人物がペトロである。下段でイエスを見上げる人々のいるところも小高い山のように描かれている。イエスの座の真下には木が描かれている。この時代の写本画でこのような不思議な形をした木がしばしば描かれるが、これは、今、イエスの登場、その福音とともに生い育ち始めている神の国を象徴するといわれる。下段に描かれている人々は立派な衣装をまとう高貴な人、女性、そして普通に働く人など多様である。これが、「幸いである」とイエスによって宣言される人々の例示であり、その祝福を受け入れようとしている人々の姿である。
 さて、きょうは諸聖人の祭日であり、原語に従うと「すべての聖人」の祭日である。普通に考えると、列聖された聖人で、固有の祭日、祝日、記念日に入ってこない、その他のすべての聖人の祭日と考えてしまうかもしれない。それはそうとしても、聖書朗読が用意している福音朗読箇所がマタイによる、この「幸いである」の福音であることは大変意味深く、教えられるところが多い。なにか特別に徳の高かった人、信仰の模範となった人々ではなく、ここでは「心の貧しい人々」「悲しむ人々」「柔和な人々」「義に飢え渇く人々」「憐れみ深い人々」「心の清い人々」「平和を実現する人々」「義のために迫害される人々」が言及されている。徳において完成された人というより、神の前に素直に立つ人々、人間の世界では苦しみ、悲しみの中に置かれているかもしれない人々が「幸いである」として、神の国に生きていると告げられている。ここにイエスの福音の真骨頂がある。
 他の聖書箇所も見てみよう。第1朗読では黙示録7章2-4節、9-14節が読まれ、ここでは「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まってきた人々」(9節参照)、「大きな苦難を通って来た者」(14節)が父である神と、小羊(キリスト)を賛美するために集う様子が述べられている。これも、すべてのキリスト者のことを指している。第2朗読のヨハネの第一の手紙3章1-3節も、神の子とされたキリスト者すべてのことを念頭において語られている。「御子が現れるとき、御子に似た者となる」(2節)という約束の確認である。
 聖書朗読では、このように、キリストを信じるすべての人という意味で「聖人」という言葉の根底にある広がりが見つめられている。それは、パウロの手紙が冒頭の挨拶の中でしばしば信者のことをいう「聖なる者とされた人々」という言い方での聖者、聖人の意味に近い。たとえば一コリント書1章2節「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」である。
 祭日として、出発点となる意味は「聖性が認められて崇敬されているすべての聖人」を記念するというのがこの日の趣旨であるが、聖書朗読を通して考えられているのは、すべてのキリスト者が聖性へと招かれているということ、そして、聖なる者とされている事実という意味である。それが教会共同体の内向きの確認と、とどまっていてもいけない。イエス・キリストを通しての聖性の招きはさらに全人類、すべての人に向けられていること、そしてそのように向けていかなくてはならないというのが教会の使命(ミッション)だからである。
 もちろん、このような普遍的な招き(福音宣教)を天上の教会に集う聖人たちが祈りをもって支えてくれていることにもしっかりと心を向けていきたい。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

平和を実現する人
 ぼくは、イエスさまと、伊藤さんの悲しいできごとの答えを、ペシャワール会の中村哲先生の次のことばのなかに見つけました。中村先生はキリスト教徒で、長い間アフガニスタンの人たちといっしょに農業や井戸掘り、そして医者として病院ではたらいてこられた方です。
「平和とは戦争以上の力であります。戦争以上の忍耐と努力がいります。和也くんはそれを愚直なまでに守りました」。
 そして、ぼくは「平和を実現する人びとは、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(『マタイによる福音書5章6節』)というイエスさまのことばを思い出しました。

三宅秀和 著『いのりとわたしたち』「Ⅰ いのりって、何だろう?」本文より

 定期刊行物のコラムのご紹介

『聖書と典礼』諸聖人(2020年11月01日)号コラム「聖者と死者のコラボレーション」

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