2021年01月31日 年間第4主日 B年(緑) |
「権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」(マルコ1・27より) 汚れた霊を追い出すイエス 『ベリー公のいとも豪華なる時禱書』挿絵 フランス シャンティイ コンデ美術館 1412-16年 ベリー公ジャン (1340-1416)という、フランス王ジャン2世 (在位1350-64)の第3子にあたる貴族がランブール兄弟という書物制作芸術家が制作した時禱書である。中世末期には聖職者や修道者だけなく、一般の人々の間でも時禱すなわち聖務日課が広まり、特に王侯貴族は豪奢の書物を競って作らせていたという。中でもこの時禱書は、「国際ゴシック様式」と呼ばれるゴシック様式の一つの発展形の開花を示す芸術的な書物の代表をなす。 この時禱書については昨年、NHK BSプレミアム『日曜美術館』(初放送2020年5月3日)で紹介されていた。子牛の革をなめした牛皮紙の上に、金やラピスラズリなどの高価な顔料が惜しみなく使われ、鮮やかな彩を誇る点、特に冒頭では、十二か月の暦と共に各月の代表的な農作業や狩猟の光景が画かれているという点が注目されていた。もちろん祈祷書として、内容の大半は福音書の本文や聖母マリアに関する祈りで、そこに挿絵が織り込まれているのだが、そこは、番組では触れられていない。 きょうの表紙絵は、福音朗読箇所マルコ1章21―28節のエピソードを描くものである。一般にゴシック時代の造形芸術は、一つには写実的な描き方を強めていくことにあるが、もともとのカファルナウムの会堂での出来事を、15世紀の風景の中に落とし込んで描き出しているところが興味深い。この時代の聖書画は一般にそのような傾向を深めていく。パレスチナの風土の中で史実としての出来事を追い求めがちなのは、我々の時代の志向性なのだろう。中世末期やルネサンスの宗教画は積極的聖書の出来事と当時の時代との対話を敢行していたともいえる。それは、イエスの生涯を、当時なりに身近に感じていたことのしるしなのであろう。 さて、きょうのマルコの箇所では、汚れた霊に取りつかれた男にイエスが対処する。汚れた霊に向かって「黙れ。この人から出て行け」と叱ったところ、汚れた霊は出ていくのである(マルコ1・25ー26参照)。それが神の権威、力の発動として驚かれるところに話の肝がある。神のことばが告げられると、その通り行われるという、神のことばの絶対的実現力をイエスが示したところに、イエスが神の御子であることのあかしがある。 まさに、このこととの関連において、第1朗読では申命記18章15-20節が読まれる。預言者とは何かが明示される箇所である。やはり、ここも広い意味で神のことばに聞き従うことを主題にしているところから見ると、福音朗読の汚れた霊の追放は、弟子たちの召命の話と表裏一体であることが見えてくる。神に従う者は招かれ、神に反する存在は追放されるという対比が鮮やかである。こうして神の国は人々に決断を迫りながら到来している。そのような、イエスにおける神の近づきは、実は、今も変わることがない。そのことに向き合い、そこに神の呼び招きに向かい合うために、典礼の聖書朗読があるのである。 ところで、ここで注目したいのは、イエスによって追い出されていく「汚れた霊」の描き方である。画面構成上、中心に描かれている、白い壁を背景にして黒茶色に浮き上がる、小さな翼の生えた生き物である。四つ足の動物のようでもあり、耳が異常に大きく、顔や手(前足)の感じは人間のようでもある。西洋の童話や民話を通じて知られている悪魔のイメージに近い。 一般に悪魔の造形表現は、キリスト教以前の美術の中に既にあるという。主に二つのタイプがうかがえる。一つは人間の姿をしたもの(子どもや天使もある)、もう一つは動物の姿をしたものである。動物の姿といっても、蛇、竜、獅子など聖書のエピソードをもとにした実在の動物の姿の場合や、人と動物および動物と別の動物が混じった架空の存在の場合もある。たとえば、セイレーン(上半身が女性、下半身が鳥)、ケンタウロス(上半身は人、下半身は馬)、ナイアス(ニンフともいう。女性の姿をした川や泉の精)、サテュロス(ディオニュソスの従者で快楽を好む山野の精。上半身が人、下半身が山羊など)などである。さらに、表紙絵のような汚れた霊ないし悪魔の描き方に関しては、キリスト教絵画自体にも前例があるそうである(初期の作例として6世紀のラブラ写本がある。それも、きょうの福音朗読と同じくイエスが汚れた霊を追い出す場面のものである)。 本当は、悪魔というものにはこのように形があるものではない。あくまでイメージであって、いつのまにか、我々の心に忍び込み、働きかけ、惑わせ、苦しめるものであるに違いない。神の御子イエスの訪れは、そのことにも気づかせていったし、今も気付かせようとしている。 |