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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2021年07月11日  年間第15主日  B年(緑)  
主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、「行って、わが民イスラエルに預言せよ」と言われた(アモス7・15より)

預言者アモス 
ニームの聖書写本装飾文字 
12世紀

 フランス南部、アヴィニョンに近い都市ニームで作られた聖書写本の装飾文字に描かれた預言者アモスの絵ということ以外、この作品に関する情報は乏しい。そこで、この絵に関連することとして、この紀元前8世紀半ばに活動したとされるアモスの人物像を、フランシスコ会聖書研究所訳の解説から探ってみることにしよう。
 表題にあたるアモス書1章1節には「テコアの牧者の一人であったアモス」(新共同訳)と記されている。きょうの朗読箇所に含まれる7章14節でも「家畜を飼い」(新共同訳)とあるので(字義どおりの訳)、牧者というと羊飼いを連想するが、ここの言葉の意味はもう少し広く、家畜の管理者を指すらしい。フランシスコ会訳は「牛飼い」としているほどに、意味は広いようだ。
 実際、この絵の下のほうの動物を見ると、角の形から羊と牛が描かれていることがわかる。語義の説明に含まれる解釈の幅が、このような小さな絵の中でもしっかりと反映されていることは驚きである。
 ちなみに故郷とされる「テコア」は、エルサレムの南約25km、東に死海を臨む標高825mに位置するユダ領内の町である。広く周辺諸国に通じていた土地柄のようで、またきょうの朗読箇所で「いちじく桑を栽培する者」(アモス7・14)とあるように、アモスは家畜の管理者だけでなく、果樹園農家でもあったことになる。いちじく桑の栽培業の関連で、地中海沿岸地方やヨルダン渓谷にも足を伸ばしていたことが推測されるという。そうして、イスラエルと近隣諸国の情勢に通じていたことが、アモスの預言の背景になっているようである。
 朗読箇所からもアモスは職業的預言者の一員ではなく、牧畜・農耕に従事する中、特別に神の派遣を受けたことが示されている。写本装飾文字という小さなスペースに、牛と羊を飼うアモスの描くことで、そこに神の計画の妙味があったことを少しでも表現しようとする意図が感じられる。
 ところで、きょうの福音朗読箇所、マルコ6章7-13節。イエスが十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして派遣する場面である。弟子たちは、悔い改めを呼びかける宣教をし、悪霊を追い出し、油を塗って病人をいやす、それは、イエスが行っていたことと同じで、イエスの力にあずかり、自らも体現していたことを示している。この派遣に際してなされるイエスの戒告が印象深い。「杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず」(8節)「下着は二枚着てはならない」(9節)と、現実的には難しいと思われることだが、これは神の配慮のみに自らを委ねるように、ということの教えであると受けとるべきことらしい。
 イエス・キリストの弟子であること、弟子として遣わされることは、イエスのミッション(使命)にあずかる者となることであり、その使命とは神の計画そのものに従うものであるとすると、人間世界での旅行のように機能性を考えて、目的に適った準備を周到にすることとは全く発想が違うということであろう。それが召命に生きるということであり、弟子は主人公ではありえず、神ご自身が究極の主体である、神の計画そのものが核心にあるということである。このことを体現するキリストが派遣者として、弟子たちといつもともにあり、導いてくれるのだ、という観点から、この派遣のことばも考えなくてはならない。
 実は主日の聖書朗読B年の展開は、第1朗読で預言者の派遣というテーマが先週の年間第14主日(エゼキエル)、きょうの年間第15主日(アモス)、来週の年間第16主日(エレミヤ)と続いていく。福音朗読において、イエスに従う弟子となることとは、という主題が追求されることに対して、このように旧約の預言者の派遣の出来事が思い起こされることはとても意味深い。それは、現代において、我々がキリストの預言職にあずかるものであること、使徒であること、すなわち、我々自身の根本的な、信者共通の使徒性を問いかけているのだということがわかる。
 神の計画、神のみ旨という根本テーマとの関連で、きょうの第2朗読のエフェソ書1章3-14節は大変意味深い(B年年間第15主日から第21主日までエフェソ書の朗読が続く)。「天地創造の前」(4節)からの神の計画、すなわち御子イエスにおいて人を神の子としようとするみ旨が説き明かされているからである。この中で神のうちにある思いが「秘められた計画」(9節)と表されているが、このことばは、原文のギリシア語「ミュステーリオン」(ラテン語ではミステリウム)を訳したものである。別な訳では「神秘」であり、つまり、ここは救いの神秘を語っている。すべてがキリストのもとに一つにまとめられることが救いなのであるという、神の計画が賛美的に謳(うた)われているのである。信者となること、使徒となることは、この計画の使者となることにほかならない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

人類の連帯性
 聖書ではほとんどの場合、個人は一人で孤立した存在ではなく、その人が属する集団の代表の一員として取り扱われます。だから、ある一人の人が、あるとき、あるところで犯した罪が、その人が属する集団全体の罪と見なされ、同じ集団に属する別の人がその罰を受けるという話がたくさん出てきます。


小林剛 著『旧約聖書に見るあがないの物語』「一.創世記」本文より

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