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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年5月22日  復活節第6主日 C年 (白)  
天使は、聖なる都が天から下って来るのを見せた (第2朗読主題句 黙示録21・10より)

聖なる都   
バンベルク黙示録
ドイツ バンベルク国立図書館 11世紀

 主日の聖書朗読C年は、復活節第2主日から第6主日まで、第2朗読で黙示録が朗読されるのが大きな特徴である。そこで、バンベルクの黙示録の挿絵を表紙絵に掲げて、黙示録の意味を考える機会にしたい。バンベルクの黙示録写本は11世紀初め1020年頃に作られたもので、挿絵は全部で50場面ある。金色の地が特徴である。中世の写本画制作の伝統では、表紙絵でたびたび紹介される『エグベルト朗読福音書』(980頃)と同系列に属し、神聖ローマ帝国オットー朝時代(962-1024)の写本芸術の頂点をなすものといわれる。
 C年の復活節第2主日から第6主日までの第2朗読では、黙示録の中でもとりわけ終末における人の子の来臨、神の国の完成についての内容が、旧約聖書からとられたイメージをもって語られる箇所を中心に読まれる。黙示録は、礼拝集会を支えにして迫害状況を耐え抜く初期の信者たちへの励ましのメッセージが込められていたといわれる書である。黙示録が復活節に読まれるということのうちには、初代教会の信者の心にある主キリストの姿を今、我々自身も受け継いでいこうとの意味合いも含まれているのだろう。黙示録におけるさまざまな表象や賛歌が、典礼祭儀を支える賛美と歌の源泉となっていることも心に留めておきたい。
 きょう(復活節第6主日)の第2朗読箇所は、黙示録21章10-14、22-23節で、ひときわ旧約との関連が鮮やかな、「聖なる都エルサレムが、……天から下って来る」ことが告げられる場面である。エルサレムは、神が神の民と共に住む場所の表象となっている。黙示録の別な箇所(21・2以下)では、聖なる都、新しいエルサレムが花嫁のように天から下るというイメージが語られる。そこでは、エルサレムの来臨が「神が人と共に住み、人は神の民となる」ことを意味することが説かれている(21・3)。これを参考にしつつ、きょうの福音朗読箇所(ヨハネ14・23-29)を見ると、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(ヨハネ14・23)とある。父である神、御子キリストが、キリストの言葉を守る人を愛し、一緒に住むことになるとの約束と第2朗読がよく響き合っている。
 ちなみに、この日の第2朗読では、都の四方にそれぞれ三つの門があることが語られる(黙示録21・13)。この描写のもとには、エゼキエル40章~48章に登場する預言者エゼキエルが幻視のうちに見た新しい都と神殿のイメージがある(特に48・30-35)。表紙絵にも、東北南西の三つの門が描かれている。そして、都の中と手前の空間をあふれるばかりに満たしている金色が見事である。都の上(奥)のほうは曙光の色だろう。新しい、神と人とが永遠に一緒にいる次元の始まりが雄弁に語られていることが感じられる。
 その中央にいる小羊はもちろん、キリストの表象である。その姿は、獅子のような威厳に満ちている。贖いの死を引き受けた犠牲の小羊でありつつ、そのことによって、ついに死と罪に打ち勝った者としても描かれているのである。
 新約聖書では、キリストのことを「小羊」のイメージで語る箇所がほかにも散見されるが(使徒言行録 8・32;一コリント 5・ 7;一ペトロ 1・19参照)、なんといっても頻出するのは黙示録である。この書は、小羊としてのキリスト理解をテーマにした書といってもよく、とくに、5章12節の「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です」や13節の「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」などは、ミサにおける賛美句や栄唱の源泉といえるものである。「国と力と栄光は限りなくあなたのもの」、「すべての誉れと栄光は世々に至るまで」などを思い起こすだけでよいだろう。
 「小羊」は、ヨハネ福音書1章29節の洗礼者ヨハネのことば「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」に由来する、我々にとっては、ミサの平和の賛歌「神の小羊、世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ……(以下、略)」の句、それから拝領への招きのことば「神の小羊の食卓に招かれた者は幸い」によって親しい。今年11月27日から施行される新しいミサの式次第では、拝領への招きのことばが新しくなり、「世の罪を取り除く神の小羊。神の小羊の食卓に招かれた人は幸い」となる。聖体を示しながら告げることばがこのように規範版通りにされることによって、あらためて「神の小羊」が強調される。「小羊」には、屠られてささげられたいけにえというイメージが中心に含まれている。それによって、十字架上でご自分を人類の贖いのためにささげられたキリスト自身とその生涯が深く記念される。復活節C年の黙示録の朗読は、このようにして、キリストの死と復活の神秘、過越の神秘をあかしし、我々の黙想を深く導くものとなっている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

信仰の目にしか見えない復活したイエスの現存
 ユダの質問は、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」(22)とある。このあとの23節から26節はその質問を無視しているかのようだが、実はそうではない。「父とわたしとは……行き、一緒に住む」(23)と言われる。その現れは当時ユダヤ人が考えていた目を見張るような現象ではなく、ただイエスを信じて「愛し」、その「言葉を守る」者にのみ見える現実だということ。

和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年) ●典礼暦に沿って』「復活節第六主日」本文より

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