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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2022年10月23日 年間第30主日 C年 (緑)  
謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行く(第1朗読主題句 シラ35・21より)

オランス(祈る人)
フレスコ画
ローマ プリスキラのカタコンベ 3 世紀末 

 表紙絵は、手を広げて高く掲げ、天にまなざしを向けた「祈る人=オランス」という主題の図、ローマのカタコンベの壁画(中央部分)である。
 きょうの聖書朗読全体を貫くテーマである「謙虚に祈ること」にちなんで、祈る人の典型像として描かれた古代教会の図像を味わうことにしたい。「祈る人」(ラテン語のオランス Orans)は「良い羊飼い」などと並んでキリスト教美術初期の代表的テーマの一つであり、古代ローマの美術の中で「敬虔」を擬人化する図にも見られたものという。それがキリスト教美術に取り入れられたときに、死者のための祈りと結びつき、そのために石棺彫刻や地下墓所であったカタコンベの壁画に数多く描かれるようになった。死者の肖像をこのオランスの型に託し、名前を書き添えることもあったという。
 ちなみに、この画題のキリスト教的意味については、さまざまな解釈がある。地下墓所や石棺に描かれた点から復活を待ち望む死者の魂を描いたとするもの、楽園に招かれた死者が神に賛美と感謝をささげている図とするもの、既に安息のもとにいる死者が新しい死者のために取り次ぎの祈りをしている姿とするものなどである。両手を上げて祈る人の顔が天に向けられている場合、神に向かう祈りの方向性が強く感じられよう。この絵の場合、その上を見る眼差し、掲げる両手もとても力強い。男性女性を超えた祈る人の姿に感じられる。このように、オランスは、描かれる動機としては、死者の祈り、死者のための祈りを主題としようという意図が強かったかもしれないが、その姿のうちに、もっと普遍的な「祈る教会」の姿を見ることができるし、そのように味わうことで、古代から続く、教会の生命力を感じることができるのである。
 さて、きょうの福音朗読箇所ルカ18章9-14節では、イエスが、ファリサイ派の人と一人の徴税人の態度を対比させつつ、「謙虚に祈る」よう、とくに「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」(9節)に対して、語る場面である。自分の態度や行いを心の中で勝ち誇ったように語るファリサイ派の人に対して、たとえに出てくる徴税人は、自分の罪を悔い改める姿勢として「胸を打ちながら」、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」(13節)と祈るのみである。このような人こそが「義とされ」、つまり「神に正しい者と認められる」というのが教えの結びである。「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)という対句の格言的なことばは、後の教会による念押し的なまとめといわれることもある。いずれにしても、教えは一貫している。
 このような謙虚な人の祈りをこそ、神は聞き入れ、行いをもって応えてくれるということは、旧約以来、聖書の一貫した教えであり、信仰であることを、第一朗読のシラ書(35・15b-17、20-22a)は伝えてくれる。「謙虚な人の祈りは、雲を突き抜けて行き、それが主に届くまで、彼は慰めを得ない。彼は祈り続ける。いと高き方が彼を訪れ、正しい人々のために裁きをなし、正義を行われるときまで」(21-22a節)。「正しい人」「義」ということも、きょうの福音朗読と第一朗読を結ぶもう一つのキーワードであることが明らかである。
 「義」のテーマは第二朗読箇所(二テモテ4・6-8、16-18)においても登場する。パウロは、信仰を守り抜いてきたという自覚のもとに「今や、義の栄冠を受けるばかりです」(8節)と語り、それは、「主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節)と約束する。
 こうした、主題的な関連性は、全体として先週の聖書朗読のメッセージ「気を落とさすに絶えず祈らなければならない」(ルカ18・1)を中心とした、主の来臨に向けての備えというテーマを受け継いでいる。終末論的な力点を強めていく年間の終わりの主日の特徴である。
 そして、きょうの聖書の箇所は、やはり、わたしたちのミサにとっても示唆的である。本年の待降節第一主日から始まる新しい「ミサの式次第」での、「いつくしみの賛歌(キリエ)」と名前が新しくなった賛歌のことば「主よ、いつくしみを」「主よ、いつくしみをわたしたちに」という主に対する賛美でもあり願いでもあることばは、まさしくきょうのたとえの徴税人の態度およびことばと結びつく。『ローマ・ミサ典礼書』規範版では、回心の祈りの第一の式文(一般告白)の中で、「わたしの過ち、わたしの過ち、わたしの過ち」と三度繰り返すところは胸を打ちながら唱える文言とされているが、日本のミサでは、当初からこれは日本人の習慣にはないこととして、訳も「わたしたちは……たびたび罪を犯しました」とし、その場合に手を合わせて頭を下げるという形になっている。
 いずれにしても、このようなミサの始まりの回心の祈りと賛歌において、イエスのきょうの教えは、たえず思い起こされるべきものであろう。そして、「祈る人」の図像は、キリスト者にとって魂というべき、教会の心を表すものとして分かち合い、味わっていくにふさわしいしいものである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

ファリサイ派の人と徴税人の祈り
 その二人の主人公は祈るために神殿に上ったが、その結果、神の御前で「義とされた」のは徴税人だった(14)。これは罪人と同義語で、たとえ話は、罪人への神の愛を強調するルカの特徴を表している。ただ、イエスがこのたとえ話を言われたのは、だれに向かってであろうか。導入で、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」だという(9)。それは、我々のことかもしれない。

和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年) ●典礼暦に沿って』「年間第三十主日」本文より

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