2024年2月4日 年間第5主日 B年 (緑) |
忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを(ヨブ1・7より) 神と対面するヨブ 聖書写本 バチカン図書館 13世紀 きょうの福音朗読箇所は、マルコ1章29-39節。シモン(ペトロ)のしゅうとめが熱を出して寝ていたところ、人々から彼女のことを聞いたイエスが、彼女の「そばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(31節)という場面が具体的に述べられる。そのほかは、イエスが病気の人をいやし、悪霊を追い出したこと、(34節)、人里離れた所へ出て行き、祈っておられたこと(35節)が概略的に語られる。それが、イエスの「宣教」(39節)の姿であったということが重要であろう。これらの行為は、すべて神の国の到来(マルコ1・15参照)のしるしである。 この内容に合わせてのものとして、きょうの第1朗読箇所と答唱詩編が選ばれている。ヨブ記7章1-4、6-7節、答唱詩編では詩編147の1-6節が選ばれておいる。答唱詩編では、147の3節と6節が組み合わされて「神は失意の人々を支え、その傷をいやされる。/へりくだる人を支え、逆らう者を地に倒される」(典礼訳)という神のみわざが、イエスの行為を指し示す。このようや句を含む詩編に対して答唱は詩編57・6から取られた「栄光は世界に及び、すべてを越えて神は偉大」(典礼訳)という賛美になっている。それらの神のわざは何よりもその栄光の現れである、という解釈が込められた構成で、この点が福音と対応しているのである。 では、第1朗読箇所のヨブはどうか。ヨブという人の苦悩、信仰との格闘を語るこの書は、きわめて深い問題を多彩な表現を持っている宗教文学としても世界的に知られている。その文章の解釈は、しかし、しばしば難解である。新共同訳に従うにしても、朗読箇所に挙げられているところだけではなかなかわかりにくい。というのは、ヨブ記は「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(ヨブ1・1)ヨブに突然、災いと病が襲い、そこから自分の生まれた日を呪うなどヨブの深刻な嘆きが始まる(3章)。これに対して、三人の友の助言とヨブの独白や祈りが交互に続くという流れになる。 4章-5章はエリファズという名の友人が、神に全面的な信頼するように、と諭すのに対して、6章-7章では、ヨブは深い苦悩を語る。朗読箇所の前半7章1-4節では、人間の人生の空しさ、不自由さの独白となる。人間が「傭兵」に譬えられているのは、自分で自分の自由がきかない状態にあること、自分が自分のものではないという疎外感を象徴する。その中からヨブは神に「忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを」(7節)と祈るが、これは、結局は、死なせてほしい、という願いである。朗読箇所のあとの15-16節を見るとわかる。「わたしの魂は息を奪われることを願い、骨にとどまるよりも死を選ぶ。もうたくさんだ、いつまでも生きていたくない。ほうっておいてください。わたしの一生は空しいのです」。結局は7章全体を読まなくてはならない。朗読箇所はあくまでヨブ記全体の窓口のようなものだろう。 ここでさらに興味深いのが7章17節である。「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか」とヨブは神に問う。この言葉が詩編8の5節と似ていることが指摘される。そこでは「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは」と告げる。詩編8では、その問いかけが神の栄光の賛美につながるが、ヨブ記の7章のこの言葉は深い苦悩の吐露である。この両方の関連を聖書学者は問いかけ、いろいろに論じているが、「人間とは何なのか」という自問がここでは、賛美であれ嘆きであれ、神への信仰告白になっているということが重要である。ヨブの苦悩と嘆きに対しても、その意味を考えるための一つの観点となる。神の民の祈りにおいては、賛美と嘆願は表裏一体である。 ミサの「いつしくしみの賛歌」にもそのことがいえる。「主よ、いつくしみを(わたしたちに)」と願い求める叫びは、同時に神への信頼と賛美のこもった信仰宣言でもある。おそらく、ヨブの祈りのうちに新約の民の祈りが始まっている。表紙絵はそのようなヨブの神との対面、対話をコンパクトに描いている。ここにいるヨブは我々自身だという気持ちで、絵を眺め、ヨブ記にも向かいたい。 ちなみにヨブ記が主日のミサで朗読されるのは、きょうの年間第5主日B年と、もう一回、同じくB年の年間第12主日(今年の6月23日)のみである。今年が大きなチャンスである。 |