2024年3月17日 四旬節第5主日 B年 (紫) |
一粒の麦が地に落ちて死ねば、多くの実を結ぶ(福音朗読主題句 ヨハネ12・24より) 十字架降下 二つ折り書き板装飾 アトス ヒランダリ修道院 14世紀 きょうの福音朗読箇所ヨハネ12章20-33節にあるイエスのことば「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒の麦のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(24節)以下のメッセージの内容を、イエス自身が実証したともいえる、十字架のイエスの姿。しかも、その死の事実が明確にされた、遺体の引き取りと埋葬に関する図像が表紙絵に掲げられている。その言葉は、イエス自身の受難の予告のようでもありつつ、キリストを信じる人たちに対する、その生き方に関する教えであり、呼びかけでもある。朗読箇所にある、天からの声「わたしは既に栄光を現した」(28節)を味わうためにもふさわしい図であろう。美術伝統では「十字架降下」と呼ばれる場面である。 直接、イエスの死を語る福音書の箇所を見てみよう。新共同訳で「墓に葬られる」との見出しが付けられているところである(マタイ27・57-61;マルコ15・42-47;ルカ23・50-56; ヨハネ19・38-42)。四福音書が共通に証言するのは、アリマタヤのヨセフがピラトにイエスの遺体の引き渡しを願い、それが受け入れられたことである。「ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み」(マタイ27・59)とあり、他の福音書でも同様である。その場にマグダラのマリアらがいた(マグダラのマリアはマタイ、マルコ、ルカで言及される)。ヨハネ福音書ではヨハネ3章に登場したニコデモも来たとある(ヨハネ19・39参照)。表紙絵の図では、アリマタヤのヨセフが自ら十字架の台に昇ってイエスの遺体を抱えている。その遺体の手にすがりついているのはマグダラのマリア、右側にいて衣をつかんでいるのがニコデモだろう。イエスの体の深く屈曲した姿が悲痛である。ここに「死」の現実が刻まれている。 同時に、白い亜麻布に包まれた姿は、神の子としての栄光の現れにほかならない。これが、きょうの第二朗読箇所ヘブライ書5章7-9節によれば、「永遠の救いの源」(9節)となった御子の姿である。 この図とともに、福音朗読箇所を味わうためには、二つの点に注目したい。一つは、一粒の麦のたとえを語るときの冒頭の「人の子が栄光を受ける時が来た」(23節)という言葉である。ヨハネ福音書で「時」という言葉は、独特な響きを持っている。ある場合には、「わたしの時はまだ来ていません」(ヨハネ2・4、ほかに同様の箇所7・6、8)や「イエスの時はまだ来ていなかったからである」(7・30;8・20)と言われていたのに対して、この12章以降は、はっきりと「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られる。朗読箇所の末尾近くの12章31節「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」、13章1節(最後の晩餐にあたる場面で)「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」、そして17章の祈りの冒頭「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」(1節)がそのことを示している。イエスの言う「わたしの時」ないし「人の子が栄光を受ける時」とは、具体的には十字架での死であるが、それが栄光の現れの時である、逆説的な事柄の同一性・同時性を示すものとなっている。 このことは、絵画を味わうためにも重要である。イエスの死の事実(引き渡される遺体)の中に復活・天に上げられることなどを合わせて見つめ、味わうことが大切になってくる。神を畏れ敬う信仰心の篤い人物に遺体が引き取られ、手厚く埋葬された、ということのうちに、それ自体が、イエスの奉献の死が神に嘉納されていくことの表現にもなっていると考えると、まことに味わい深い。 ちなみに、一粒の麦のたとえに続くイエスの言葉「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」(25節)は、共観福音書がペトロの信仰告白と最初の受難予告に続いて弟子たちに語る言葉に相当する(マルコ8・35「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。並行マタイ16・25;ルカ9・24)。その前後の言葉も含め、同じイエスの言葉伝承から取られたものであり、我々に対するイエス自身の声がそこにあると考えることができる。そして、この言葉は、いつもミサの中で、そして、聖堂にある十字架像を通して我々に告げられている。イエスの時が今、我々の時につながっている。福音と聖体を通して、イエスの時が我々の時としていつも新たに分け与えられ、世の現実の時の中へと遣わされていくのである。 |