2024年4月7日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日) B年 (白) |
信じない者ではなく、信じる者になりなさい (ヨハネ20・27より) 復活したキリストの現れ 詩編書挿絵 パリ アルスナル図書館 1230年ごろ 復活節第2主日の福音朗読は毎年このヨハネ20章19-31節である。表紙絵は、下段において、きょうの箇所の後半(24節以降)に述べられるイエスとトマスの間の出来事を表現している。上段の絵は、この箇所の前にあるヨハネ20章11-18節のエピソードを表現している。マグダラのマリアに、「婦人よ、なぜ泣いているのか」(ヨハネ20・15)と語っている。 きょうの箇所では、二つのエピソードから成っている。まず、イエスが復活したその日、すなわち週の初めの日の夕方に、復活したイエスが弟子たちの真ん中に来て立ったこと(20・19-23)、続いて、イエスとトマスとのかかわりのエピソードである(20・24-31)。この話は一般に「トマスの疑い」という画題として東西の造形美術においてよく描かれる。トマスの意識や態度が、我々の感覚と近いことがあるのだろう。実際、このエピソードを読みながら、トマスを通じて、我々は復活したイエスに近づき、出会いたいと願う思いを抱くことになる。 このエピソードは、福音書の叙述と美術的表現との対応の仕方が多様であるということも興味深い。トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(20・25)と、言った。それに対して、イエスは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手をみなさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(20・27)と言う。これに対して、実際にトマスがそうしたかどうかについては言及されていない。 ここのところを表紙絵では、トマスが右の手指を伸ばして、イエスの脇腹の傷に触れているように描いている。そして、きわめて珍しい描法だが、イエスはその手をぐっと掴んでいる。トマスの右手を自ら引き寄せているように描いているのではないかと思われる。「わたしのわき腹に入れなさい」という命令形のことばの具象表現といえるだろう。もちろん、そのような描写は福音書にはない。イエスのこのような積極的動作を描く出すことによって、描き手は、トマスの前でのイエスのメッセージ全体を示そうとしたのではないだろうか。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20・27)と。 イエスの積極的な行動を描き出しているこの絵を見たうえで、福音書の叙述に戻ると、疑いを抱いているトマスに対する「わたしの手を見なさい……わたしのわき腹に入れなさい」(27節)ということばは、力強い信仰への招きそのものであり、トマスに対する召命のことばであることが感じられてくる。だからこそ、トマスは、イエスのことばに答えて「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白をしたのである。 それを受けての、イエスの「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20・29)ということばは、実に印象深い。トマスは、ここで「見たから信じた者」なのだろうか。あるいは、「わたしのわき腹に入れなさい」と言われて、そう言われた瞬間に信仰告白をしたのか、それとも、見ないで信仰告白した者なのだろうか。普通に考えれば、前者のようだが、あとの場合だとそれも意味深い。いずれにしても、この出来事、それを描く作品においても、このエピソードは、トマスの信仰告白がメインになっている。表紙絵でも、トマスが真剣にイエスを仰いでいるところはやはり重要である。トマスの疑いや不信どころか、トマスの信仰が立派なテーマである。そして、そこでイエスのことばとして告げられている「初めは疑ったかのような人が、信仰告白へと導かれていく」この出来事は、そのまま使徒以後の時代のすべての人の信仰のプロセスの先駆けのようである。「見ないのに信じる者は、幸いである」(20・29)というイエスのことばは、使徒に続く弟子たちすべて、そして、現代の我々にまで至るすべての人への信仰の招きであり、祝福である。 ちなみにヨハネは、この出来事を主日(「週の初めの日」ヨハネ20・19; 「その八日の後」(20・26)のこととして語り、我々の主日体験として語る。日曜日のミサで、イエスがいつも我々に「見ないのに信じる者は幸いである」と、その弟子、主に導かれる神の民となるよう招いてくれている。その声にトマスとともに耳を傾け、「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と応答する用意をしている者でありたいと思う。 |