2024年5月5日 復活節第6主日 B年 (白) |
友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15・13) 十字架のキリスト 板絵 マルガリト・ダレッツォ作 イタリア シエナ キージ・サラチーニ宮殿 13世紀 12、13世紀、イタリアで多く見られる板絵の十字架のキリスト像では、目を開けた姿で描かれるものが多い。このキリスト像の場合、釘づけられた両手や両足から血が流れているが、多くの作品が描く、脇腹からの流血(ヨハネ19・34「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」)は描かれていない。イエスの頭の上、十字架の縦の木の上部には、全能のキリストが描かれている。明らかにこのようにして、十字架上にいるキリストはただ死んでいる人としてではなく、全能の主キリストとしての尊厳をもって描かれている。 この作品をヒントとして鑑賞しつつ、きょうの福音朗読箇所を味わっていこう。その箇所は、ヨハネ15章9-17節。ヨハネ福音書における最後の晩餐での出来事とイエスの話(13、14章)のあと、「さあ、立て」(ヨハネ14・31)とイエスが言って、場所を変えたという流れの中で展開される教えの部分であり、先週(復活節第5主日 B年)の福音朗読箇所、「わたしはまことのぶどうの木」に始まるヨハネ15章1-8節にすぐ続く箇所である。この中で、「わたしの愛にとどまりなさい」(15・9)、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」(15・12)という愛の掟の直接的な告知に続いて、その愛の模範として「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13節)と告げられる。「命を捨てる」という表現については、復活節第4主日(B年)の福音朗読箇所ヨハネ10章11-18節に出てくる「わたしは羊のための命を捨てる」(10・15)という表現と関連して、「捨てる」の原語は「置く」を意味し、文脈上「すすんでささげる」ことを意味すると考えられている。 きょうの箇所の中にある「友のために自分の命を捨てる」も、自分の命をすすんでささげることと理解してよいのであれば、そのような行為の典型はまさしく十字架のイエスのうちに見ることができる。ヨハネ10章では「わたしは命を、再び受けるために、捨てる」(17節)、「わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(18節)とも告げられている。命をささげることにおいて、どこまでも主体的で自由な存在であるのは、イエスがまさしく主であるからと考えることができる。主としてイエスは自ら十字架で命をささげ、永遠の命の主になられた――その意味合いを、表紙絵の目を開いている十字架のイエスの姿を通して、仰ぐことができるだろう。 もう一つ、きょうの福音朗読箇所において注目すべきことばは「友」である。「友」という語で、イエスが弟子たちとの関係をはっきりと語るのは新約聖書の中でもこの部分だけである。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(15・14)、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(15節)――普通ならば「弟子」という語が自然に思える文脈だけに「友」という語がとても強い印象を放つ。愛の掟と相関関係の中で「友」が語られているところに注目するならば、東西の精神史、思想史の中でアリストテレスの「友愛」の教え、ストア学派の「人類愛」の教え、あるいは儒教の「仁」の教えなど、兄弟姉妹的な相互連帯の「愛」の教えが多様にある中で、キリスト教は、神の愛に根ざす互いの愛を「友」という語とともに考えているとすれば、その出発点はヨハネ福音書のこの部分にある。 神の愛を表すギリシア語がアガペーだということは知られているが、もう一つ愛を表すギリシア語にフィリアという単語があり、友愛的な愛を意味する。新約聖書では、この語から派生したフィレーマという語が、信者同士のあいさつである「聖なる口づけ」を意味しており、使徒書にたびたび出てくる(ローマ16・16; 一コリント16・20;二コリント13・12; 一テサロニケ5・26)。一ペトロ5章14節では「愛の口づけ」とも語られている。もちろん、この「聖なる口づけ」や「愛の口づけ」は神の愛に根ざす、神によって聖化された信者同士の兄弟姉妹的あいさつである。この精神と実践が、我々のミサの平和のあいさつに受け継がれていることはいうまでもない。主が残された平和(ヨハネ14・27参照)のうちに互いにあいさつを交わす行為のうちに、「友のために自分の命を捨てる」イエスの心が受け継がれ、確認されている。それは互いに仲良くするということを含むが、究極的には、相手のために命をささげる心ということまで含んでいる、ということを心に留める必要があるだろう。 |