2024年5月26日 三位一体の主日 B年 (白) |
上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神はいない (第一朗読主題句 申命記4・39より) 天地創造 天井モザイク(中央部分) ヴェネツィア サン・マルコ大聖堂 13世紀 B年の三位一体の主日の聖書朗読は、救いの歴史全体を、三位一体の神のもとで展望させてくれる。 その第一朗読箇所である申命記では、主である神が、イスラエルの民をエジプトから救い出し、ご自分の民、すなわち神の民として選び出したこと(申命記4・34参照)を民に思い起こさせている。その根底には、「上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないこと」(同39節)の信仰、その神が「地上に人間を創造された」(同32節)という創造のみ業(わざ)があったことが思い起こされている。 この関連で、答唱詩編では、「天は神のことばによって造られ、星座はそのいぶきによってすえられた」(詩編33・6 典礼訳)ことを思い、「神のはからいはとこしえに、み心の思いは世々に及ぶ」(詩編33・11 典礼訳)ことを黙想し、祈る。 このような創造のみ業の想起に合わせて、サン・マルコ大聖堂のモザイクで創造の業(創世記1章)を描く最中央部のところを鑑賞してみることにしたい。中央下の所は「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面を動いていた」(創世記1・2)にあたる。時計と逆回りに神の業は進展していく。次には、「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」(同1・4-5)。その次は、「神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた」(1・7-8)、次は、「神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた」(1・10)、そしてこの円の最後の場面は、「地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた」(1・12)というところである。ここまで創造の第一日から第三日までの業が描かれている。このモザイクは、表紙絵の円の部分のさらに外側の円の部分で、それに続く第四~第六日、生き物と人間の創造を描いていく。 このようなわざは、1章1節の冒頭で「初めに、神は天地を創造された」と語られているように、この場合の天は地とともに被造物世界全体を表すときの総称の一つであることがわかる。「天」は「天におられるわたしたちの父よ」と主の祈りで唱えるときのように、神のいる次元を指す語である場合もあるが、創世記の文脈では、天も地も神が造られたものとして語られる。そして、それらの創造主である神は、もちろん、それらを超越しつつ創造する方である。「上の天においても下の地においても主こそ神であり、ほかに神のいないこと」の信仰は、そのような天地万物の創造主である唯一の神への明確な信仰宣言を意味する。 このことを踏まえて、きょう(B年の三位一体の主日)の福音朗読箇所を確認しよう。マタイ福音書28章16-20節。この福音書を締めくくる箇所である。復活したイエスがガリラヤで弟子たちの前に現れ、派遣のことばを告げるところである。そこで、イエスは冒頭「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(28・18)と告げ、ご自分が父である神の権能を天地万物に対して有する神の御子、主であることが告げられている。そして弟子たちに、すべての民をイエスの弟子にすることともに、後の教会が洗礼を授けるとの定型句となっていく「父と子と聖霊の名によって」ということが、すでにイエスのことばとして告げられていく。最後に、弟子たちに命じたことを弟子たちが実行していくための保証として「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20節)と語られるが、これは、ある意味で、聖霊の存在と働きを予告している。マタイ福音書は周知のように、神が共におられることについての教えが全体を貫いているといわれる(マタイ1・23、18・20など参照)が、マタイ的な言い方で、ここは、父と子と聖霊である神のあり方を教える箇所と受け止められよう。 このことを別な角度から説き明かすのが第二朗読箇所のローマ書8章14-17節である。キリスト者が、神の御子キリストとともに生き、苦しむ神の子どもたちとして神の霊を受けていること、それは、神を「アッバ、父よ」(ローマ8・14)と呼ぶ者となっていることで明らかである、と教えている。このことは、主の祈りをたえず続けている我々キリスト者すべてのあり方を明らかにしている。 きょうの聖書全体は、創造の初めから「世の終わり」(マタイ28・20)までを展望させる。三位である唯一の神が共にいる被造世界の全歴史を思い、「世の終わり」を目指しているのが我々である。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける」(ローマ8・17)との使徒のことばを支えに、我々は、「天におられるわたしたちの父よ……」という主が教えくれた祈りを続け、「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます、再び来られるまで」(奉献文の中の「信仰の神秘」への応唱)と宣言し、待ち望み、祈るのである。 |