2024年6月23日 年間第12主日 B年 (緑) |
わたしたちは……体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。(ニコリント5・8より) 「嵐の中で」 手彩色同版画 原田陽子(大阪高松教区) 表紙絵は一目瞭然、きょうの福音朗読箇所マルコ4章35-41節が伝えるエピソードにちなんでいる。舞台はガリラヤ湖。弟子たちがイエスを舟に乗せて漕ぎ出したところ、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」(マルコ4・37-38)という場面である。絵はまさにこの様子を描いている。突風によって荒れる湖面が、舟の帆とぐるぐるの波の無数の重なりで表現されている。舟の艫、すなわち後部には白い衣でよく休んでいるイエスがいる。目を閉じ、荒れる湖面とは無関係な静かな落ち着きを感じさせる。 文言に掲げた「イエスは起き上がって、風を叱り……」(同4・39)はこのあとのことになる。絵では舟に弟子が12人描かれている。マルコ福音書3章13-19節で、十二人を選び、使徒と名付けられた、と先に書かれていることが前提とされている作画である。彼らは宣教のための使命を受け、悪霊を追い出す権能を受けている者(同13・14-15参照)である。この使徒たちが嵐におびえ、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(同4・38)と言うのである。絵の中の12人はよく見ると実に多様である。怖がっているような表情は一部の人に見られるが、他方では、沈思している顔、イエスのほうを信頼して見ている顔も見られる。このような描き方は、今の我々に置き換えて考えることができる。ほんとうに危機を感じたとき、恐怖を覚えるとき、我々はイエス・キリストのことをどのように思うだろうか、心から主に願うだろうか……と。そのように自由に自己投入して考えを広げてみるのも図像鑑賞の妙味であろう。 きょうの第一朗読箇所であるヨブ記38章1、8-11節でも海(8節)、高ぶる波(11節)が言及され、また答唱詩編となっている詩編(107・23-32)でも海における危険の中で「彼らが苦悩の中から神に助けを求めると、神は苦しみから救い出された。あらしは静められ、海はなぎとなった」(詩編107・28a,29 典礼訳)という箇所が福音に関連づけられて選ばれている。福音朗読箇所でも「イエスが風を叱り、湖に、『黙れ、静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった」(マルコ4・39)とある。荒れる海も湖もこれらは悪の領域、いのちを脅かす力の象徴となっていて、これに対して、イエスが「静まれ」と言うとそのとおりになる。天地の創造主である全能の神の力を、イエス自身が現したのである。このような神の権威の顕現に対して、弟子たちは「非常に恐れて、『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか』」(同4・41)と互いに問いかけ合う。すでに十二使徒として選ばれている彼らにおいても、キリストの権威は人間としての思いを超えており、畏怖するしかないものであることが強調されている。 マルコ福音書は、イエスがさまざまな癒しのわざを通して神の力が現されていくことを、それに対する人々の反応とともに際立たせていく。汚れた霊に取りつかれた男をいやす場面(マルコ1・21-28)では、「人々は皆驚いて、論じ合った。『これはいったいどういうことなので。権威ある新しい教えだ……』」(同1・27)と。中風の人をいやした場面(同2・1-12)では、「人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した」(同2・12)とある。こうした驚きがイエスは誰かということへの素直な問いかけや神への賛美に向かうという側面もあれば、これらのイエスのわざは律法学者やファリサイ派の人々にとっては、神を冒涜(ぼうとく)するもの(同2・7参照)と映り、イエスを殺そうという相談になっていく(同3・6参照)。このようにイエスが示す神の力、そして神のことばが、この地上では、受難の道、十字架の道へとイエスを連れていくことになる。人々が素直に驚き、イエスは誰かというかけ、神を賛美することに向かうメンタリティは、十字架上のイエスを見た百人隊長のことば――「本当に、この人は神の子だった」(マルコ15・39)――に集約されることになる。 イエスが遭遇する苦難は、荒れる湖が生み出す最大の波であったといえるだろう。それを最終決定的に治めたのは復活の出来事である。嵐を静めるイエスのことばと、その実現のうちに既にイエスの死と復活の出来事が予示されている、と見ることができる。白い衣のイエスの寝顔は、復活し、御父の右の座におられる主として面影をすでに示している。 |