2024年7月21日 年間第16主日 B年 (緑) |
イエスは飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれた(福音朗読主題句 マルコ6・34より) よい牧者 モザイク ラヴェンナ ガラ・プラキディア 5世紀 「牧者」、「よい牧者」という言葉を聞くと、多くの場合ヨハネ福音書10章の内容を連想するだろう。それは復活節第4主日の福音朗読を通して毎年触れるからである。しかし、このほかにも、イエスを牧者としてイメージしていると思われる箇所が福音書の中にある。きょうの福音朗読箇所であるマルコ6章30-34節の末尾の叙述である。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6・34)。群衆を羊に譬えたこの表現は、当然に、飼い主のいない羊を憐れみ、教える方としてのイエスを牧者のように思い描いているのは確かである。 このような指導者としての「牧者」のイメージでイエス・キリストが絵画的なイメージとしても描かれ、さまざまな牧者の姿で描かれていることは既に復活節第4主日の『聖書と典礼』の表紙絵でも紹介しているとおりである。きょうのラヴェンナのモザイクは、羊たちの群れの中に尊厳ある主としての姿で描かれるキリストを描くものである。キリスト自身は、羊飼いの姿ではないが、十字架の形状をした牧杖を左手で立て、右手は羊の口に優しく伸ばされている。羊飼いに導かれて安心する羊たちの光景であり、その平和な雰囲気は、すでに楽園の光景である。 福音書におけるイエス=牧者という理解は、聖書全体、とくに預言者のことばに根ざしている。その代表がきょうの第一朗読箇所であるエレミヤ書23章1-6節である。神の民イスラエルがバビロン捕囚からの回復を予告する文脈の一部である。同じモチーフの預言は、エレミヤ書3章14-18節にあり、また、30章と31章において壮大に告げられる。その中に、やはり新しい正しい指導者のことが「牧者」のイメージで告げられる。たとえば、エレミヤ3章15節「わたしはあなたたちに、心にかなう牧者たちを与える。彼らは賢く、巧みに導く」、31章10節「諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。『イスラエルを散らした方は彼を集め、羊飼いが群れを守るように彼を守られる』」などである。エレミヤの時代では捕囚から解放する新しい指導者のことが「牧者」のともに思い描かれているが、もちろんこの牧者が来るという約束のことばは、その時代的限定を超えて、聖書全体の中では、もちろんイエス・キリストを指し示すものとなる。 きょうの福音朗読箇所エレミヤ23章1-6節は、王であり、民の牧者である救い主(メシア)の到来を予告、メシアに関する預言の特徴が強い。その王は、「正義と恵みの業(わざ)を行う」(5節)であり、民が「安らかに住む」(6節)ようにする、すなわち平和をもたらす。その名が「主は我らの救い」(同節)とまで呼ばれているところには、もうイエスの誕生の予告がある。とくにイエスと名付けることを告げる天使のことばに直結する。マタイでは「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(マタイ1・21)、ルカでは「その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(ルカ1・31-33)。イエスという名には、旧約の神の民の歴史が内に含まれているのである。 そのように王のイメージをも含む新しい牧者であることが約束されて現れているイエスだが、きょうのマルコ福音書6章の箇所では、その“牧者らしさ”は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え」(34節)る方として記される。「憐れむ」方であるというところに、また、旧約における神についてのあかしや信仰が踏まえられていて、さらに新約の福音の響きが凝縮されている。これまでのミサにおけるキリストの賛美の文言「主よ、あわれみたまえ」、新しい式文での「主よ、いつくしみを(わたしたちに)」につながる牧者の姿である。それは、きょうの答唱詩編である詩編23「主はわれらの牧者」で歌われることばと豊かに響き合う。「神はわたしを生き返らせ、そのいつくしみによって正しい道に導かれる」(3節。典礼訳)、「あなたがわたしとともにおられ、あなたのむちとつえは、わたしを守る」(4節。典礼訳)とたたえられる牧者としての主である。その導きのもとに生きる信者は、モザイクの中の羊たちのように、平和に満たされている。「神の恵みといつくしみに生涯伴われ、わたしはとこしえに神の家に生きる」(6節。典礼訳)のである。 このモザイクが描くのは、まさしく、このような神の家である。 |