2024年8月11日 年間第19主日 B年 (緑) |
御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ」(列王記上19・5より) 「起きて食べよ」 手彩色銅版画 原田陽子(大阪高松教区) きょうの表紙絵は、第一朗読箇所である列王記上19章4-8節にちなむ原田陽子氏作の手彩色銅版画である。地に横たわっているのがエリヤ。彼は、迫害を受け、自分の命が狙われているのを知って避難し、荒れ野に入って歩き続け、えにしだの木の下に座って、自分の命を取ってくださいと神に願う。迫害の疲れからなのか、また神からいただいた命をこのときに神に返そうとしたのであろう。そこで、木の下で横になって眠る(以上、列王記上19・3-5参照)。すると御使いが彼に触れて「起きて食べよ」(5節)と言う。そうして見ると、「枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶(かめ)があった」(6節)。絵は、表紙作品は、横たわるエリヤが疲れ果てたかのように手を伸ばす先に、このパン菓子と水の瓶を描く。エリヤに触れようとしている御使いの姿は聖霊を感じさせる青い衣と翼をしており、その顔も優美である。パン菓子と水が神の恵みにほかならないことを示す、慈愛に満ちた表情をしている。これらを食べ飲みすることによって力づけられたエリヤは、「四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた」(8節)。その後、エリヤは主の言葉を受けて、新しい使命を受けることになる(9-18節)。 エリヤという預言者については列王記上の17章、18章、19章、21章、列王記下の1章、2章、3章、9章、10章、21章、歴代誌下21章、マラキ書3章で述べられる。紀元前9世紀、イスラエル王国が北のイスラエル王国と南のユダ王国に分かれた後、北王国でバアル宗教の勢力が増したなかで、主である神の信仰を守るべく活躍した預言者である。イエスが登場する時代においては、エリヤは、終末の審判の日に先立って主の道を整える者として再来すると信じられるようになる。このことをはっきりと語るのは、マラキ書3章にある(1節「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」、23節「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤを遣わす」)。 こうしたエリヤ待望は、新約聖書が記すように洗礼者ヨハネ、そしてイエスに対して向けられる民の期待の前提となっている。実際、洗礼者ヨハネの風体はエリヤのようであり(列王記下1・8参照)、彼の登場はエリヤの再来と問われ(ヨハネ1・21参照)、イエスによってそのように語られる(マルコ9・13;マタイ17・10-13参照)。他方、イエス自身がエリヤと人々から思われる(マルコ8・28;マタイ16・14;ルカ9・8参照)。しかし、イエスはそれ以上の方であることが暗に示される変容の場面では、エリヤは、モーセとともに預言者の代表として、イエスが神の御子であることの証人として現れる(マルコ9・4;マタイ17・3;ルカ9・30参照)。そのように決定的なメシア(救い主)の到来のために預言の言葉のみならず、その人物自体が洗礼者ヨハネとイエスの予型となるほどに重要なのがエリヤである。とりわけ、きょうの朗読箇所で言及される神の山ホレブまでの荒れ野での四十日四十夜がイエスの荒れ野での試みの期間(マルコ1・13;マタイ4・2;ルカ4・2)の予型の一つである。 そのエリヤはその預言者としての使命を果たすために神によって養われる。列王記上17章4節、6節では、干ばつのさなか、数羽の烏が、朝にも夕にもパンと肉をエリヤに運んで来たことが述べられている。きょうの第一朗読箇所である19章6節ではパン菓子と水である。エリヤは神によって養われつつ、神のことばを託されて告げる預言者であることが印象深い。このようにして預言者エリヤが神からの食べ物によって力づけられ、その使命に向かうという事柄自体も、イエス・キリストを考えるヒントになるのかもしれないが、我々キリスト者にとっては、きょうの福音朗読箇所ヨハネ6章41-51節で語られる「わたしは天から降(くだ)って来たパンである」(41節)というキリストの神秘と、「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)で語られる聖体の神秘の歴史的な予型をエリヤの出来事のうちに見ることができる。 神に仕える者は、神自身によって養われる。それは、みことばそのものによって、そして今我々にとってはキリストの聖体の秘跡によってのことである。我々キリスト者がキリストの預言者として使命にあずかる預言職を担っていると考えるとき、我々自身もエリヤのように神に養われているということを心に留めることが大事だろう。主の祈りの一句「わたしたちの日ごとの糧をきょうもお与えください」を唱えるとき、エリヤを、そして、主イエス・キリストの晩餐を心に浮かべてみると味わい深い。聖体の秘跡も実際の食べ物も、すべて神の恵みとして、神から与えられている使命に向けて、受けとっていくことが大切であろう。 |