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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年8月25日 年間第21主日 (緑)  
イエスは、……御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられた(ヨハネ6・64より)

ゲツセマネの祈りと逮捕
オットー三世朗読福音書挿絵
ミュンヘン バイエルン国立図書館  10世紀末

 きょうの福音朗読箇所は、ヨハネ6章60-69節。B年の年間第17主日から続いたヨハネ6章の朗読の最後である。この中で、イエスは、6章51-58節で告げた教え(先週の解説を参照)に対して、広い意味での弟子たちの多くでさえも「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」(60節)と言うのに対して、再度教えるが、「しかし、あなたがのうちには信じない者たちもいる」(64節)。ヨハネ福音書は、ここで「イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである」(同上)と説明的に述べる。きょうの朗読箇所の直後では、自分が選んだ十二人(使徒)のうち、イスカリオテのユダのことを言っていたと述べて、裏切る者=ユダという指摘をはっきりとしている(71節参照)。実際、他の福音書でも「裏切る」という表現は、ユダのこととして語られている。
 このような関連性を含むきょうの朗読箇所の中のイエスのことばなので、その意味合いを考えるヒントとして、実際にイエスが裏切られて逮捕される場面を描く朗読福音書の挿絵が表紙絵に掲げられている。
 二段になっており、これはマルコ14章の32-42節(ゲツセマネで祈る)と、43-50節(裏切られ、逮捕される)という福音書の叙述に対応している。マタイでは26章36-46節から47-53節の展開、ルカでは、22章39-46節から22章47-53節への展開である(なお、ルカでは、ゲツセマネではなく「オリーブ山」と記される)。ヨハネ福音書では、18章3-12節で裏切りと逮捕のことが叙述されるが、ゲツセマネの場面はない。
 表紙絵の下段、中央でイエスに接吻しているのがユダである。あとは、それぞれの福音書の叙述と見比べてみるといだろう。きょうの朗読箇所での裏切る者への暗示がやがて主の晩餐における予告(マルコ14・18; マタイ26・21; ルカ22・21; ヨハネ13:21) を経て、その裏切りの現実化が示されるところである。そして、その帰結はイエスの十字架死ということになる。
 ここで、我々は、裏切りということがきっかけになったのがイエスの受難・死と復活であることを思うとき、我々の信仰の核心にあることが、裏切りと絡みながら展開している事実に驚いてもよいのかもしれない。
 それと、きょうの福音朗読箇所におけるイエスのことばの中で、広い意味での弟子に対して、「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」(64節)と告げる。「信じない者」となる可能性は、実際に信じていない人の中だけでなく、イエスに従ってきている広い意味での弟子たちの中にもいることが紛れもなく言われている。とすれば、ほんとうは、「裏切る者」となる可能性も多くの弟子たちにある、というニュアンスも、ここに含まれているのではないか。あとの展開の中で、実際にイスカリオテのユダが裏切ったという事実は確かにあるのかもしれないが、だからといって「裏切り」はユダだけのこと、「裏切り者」=ユダとして、我々のほうには、裏切りなどありえない、と無意識に決めつけてしまっては、まさしくユダを責任回避のためのスケープゴートにしてしまうことになる。裏切りという強い行動ではなくとも、信じない態度、そしてイエス自身の生死をかけての祈りのときに眠ってしまうような態度(ゲツセマネの祈り=マルコ14・37;マタイ26・40参照)、そしてイエスの仲間であることを否認してしまうような態度(ペトロの否み=マルコ14・66-72;マタイ26・69-75;ルカ22:56-62;ヨハネ18:15-18,25-27参照)はイエスを知り、従っていく者だれにでも、いつでも起こりうることなのではないか。「あなたがたのうちには信じない者たちもいる」(64節)ということばの射程はとても広いように思われる。
 きょうの福音朗読箇所の中で、もう一つの重要なのは、多くの弟子たちが離れ去ったあとに、イエスが十二人に「あなたがたも離れて行きたいか」(67節)と問いかけるところである。ここに含まれているイエスの思いは黙想に値するところである。それはそれとして、これ対してペトロが答えて言ったことばが重要である。その前半「主よ、わたしたちはだれのところに行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます」(68節)となっている。これは、日本語版ミサ典礼書において聖体拝領の際の会衆の信仰告白「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう」の一つの典拠になっている箇所である(もう一つの典拠はマタイ16・16=「あなたはメシア、生ける神の子です」新共同訳)。
 このことばは、新しい式次第でも選択可能な式文として残されている。ヨハネの福音書の典拠であるきょうの福音朗読箇所全体を読むとき、イエスから“わたしを信じるのか、信じないのか”という根本的な決断を呼びかけられている文脈の中で発されている、信仰告白であることを絶えず思い起こす必要がある。この告白のうちに、我々はいつもイエスに問いかけられていると言える。聖堂にいつもおられる十字架のイエスがいつも問いかけているのである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第21主日

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