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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年9月1日 年間第22主日 B年 (緑)  
わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい(申命記4・2より)
 
律法の巻物を掲げるモーセ 
浮き彫り フランス モアサック
クリュニー派修道院聖堂 12世紀

 表紙絵は、フランス、モアサックのクリュニー派修道院の聖堂外壁にある浮き彫りで、モーセを描くもの。
 右手に神の掟が記される巻物を掲げ、その開かれた面の一つの箇所を左手で示している。きょうの第一朗読箇所(申命記4・1-2、6-8)で、モーセが民に語りかけ、「わたしが命じるとおりにあなたたちの神、主の戒めを守りなさい」(2節)と言っている様子を想像するのにちょうどよい。その威厳ある顔、日本風にいえばガニ股で開かれた両足にも、やはり権威をもって神のことばを伝える者としての風情がにじみ出ている。
 モーセは預言者ともいわれるが、シナイでの契約をもって神の民とされた民に、神の掟、神の律法を、権威をもって語るという意味では、その権威は神にも匹敵するほどである。朗読箇所の「イスラエルよ、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい」(1節)とは、モーセのことばでありつつ、主である神のことばの響きがある。神に聞き従いなさいというように三人称的に神を語る。神の掟、そのことばを告げる仲介者でありつつも、そのモーセ自身の語ることがそのまま神のことばであるようにも聞こえる。仲介者というのは、そのように神との等しさと同時に、神との相違も内包した存在であることを考えてみる必要がある。
 このようなことを考えさせるのは、きょうの福音朗読箇所であるマルコ7章1-8、14-15、21-23節でのイエスの教えを聞いているからである。この箇所で、イエスのもとに集まっているのは、ファリサイ派の人々と数人の律法学者である(マルコ7・1参照)。この人々が、イエスの弟子たちのことを「昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)と聞く。一種の批判である。特に食事の前に手を洗うということは律法にはないが、ファリサイ派や律法学者たちが従っているユダヤ人の「言い伝え」(伝承的慣習)に反しているという指摘である。
 それに対するイエスの答えは、イザヤ書29章13節の七十人訳ギリシア語聖書に基づくものであった。「『この民は口先だけではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている』(マルコ7・6-7での引用)。イエスのファリサイ派や律法学者に対する評価が鮮やかに語らされる箇所といえる。ここで、対比されるのは、人間の間での言い伝えや戒めと、神の掟との区別である。彼らが神の戒めと思っていることを人間の言い伝えにすぎないものと断じることのうちに、それらに対して、真の神の掟は別次元にあるということが語られている。そして、その神の掟そのものを示すのが自分つまりイエス自身であるということが暗示されている。
 したがって、この場面のあと、イエスが再び群衆を呼び寄せて言う「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい」(マルコ7・14)の意味合いが俄然強いものとなる。この中の「わたしの言うこと」は、単なる人間的なある人の言うことではない、という重み、力、権威が示される。神自身の意志を告げる「わたしの言うこと」、さらにいえば、神自身であるところの「わたしの言うこと」とさえも意味するものになるのである。
 したがって、その内容となる「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7・15)という教えは、神のことばとして群衆の心に響き、福音書を通じて今我々にも告げられるものとなる。その内容は、あらゆる悪は、人の心の中から出てくるという教えであり、そこから、おのずと、悪い思いを持たないようにしなさい、という教訓が語られているように、まずは受け止められるものとなる。
 ただ、そのように読むと、イエスの尊い教えの陳述を受けて、自分自身を反省しなさい、自分たちの「思い、ことば、行い、怠り」(ミサの回心の祈りのことば)による罪を悔い改めなさい、という教えのように受け取るものとなり、もちろん、それは大事なことであるが、きょうのマルコの箇所を旧約聖書朗読と関連させると、その目をさらに深く持たなくてはならない。イエス自身が神の「言」(ことば)であること(ヨハネ1章参照)、主である神の権威をもって、すべての教えを告げる方であること、主であることをまず悟り、その御前に立たされているのだ、というところを考えなくてはならない。
 そのヒントとして、表紙絵の中のモーセの姿を鑑賞することが有意義である。このモーセの姿に、イエスの姿を完全に重ね合わせることが先ずできる。それと同時に、このモーセの場合、第三者のように神のことばを示しているが、イエス・キリストの場合は、少し異なってくるのではないか。神のことば、掟、教えを、自分自身の中から出てくることば、掟、教えとして示すようになるのではないか、と想像を巡らすことができる。実際、イコンにおけるキリストは、全能者・救い主(=神)として示され、その左手に巻物や本を抱える姿で示される。この場合の巻物や本は、自らが神の「言」(ことば)であることを示すしるしとなっているのである。
 いずれにしても、ミサでの福音朗読を通して、朗読する司祭や助祭を通して、また読まれる福音書における福音記者による語りを通しても、共同体の中で告げられることばは、キリスト自身のことばであり、それによって、我々は、ミサの集いの中に現存する主キリストと向かい合わされているのだ、という意識をはっきりともつことが重要である。
 きょうの第二朗読箇所であるヤコブ書(1・17-18、21b-22、27)の本文に出てくる「真理の言葉」(18節)、「御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救いことができます」(21節b )、「御言葉を行う人になりなさい」(22節)などの表現では、「(御)言葉」はすべてキリストに置き換えて聞き取ることができる。「御言葉を行う人」とは、キリストのように行い、生きる人となるということだろう。使徒の教え、キリスト教の教えの究極の表現の一つである。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第22主日

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