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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年9月8日 年間第23主日 (緑)  
栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません (ヤコブ2・1より)
 
荘厳のキリスト
『シュトゥットガルトの福音書』挿絵
ドイツ シュトゥットガルト 
バーデン=ビュルテンベルク州立図書館 830年頃

 きょうの福音朗読箇所はマルコ福音書7章31-37節。「耳が聞こえず舌の回らない人」(32節)をイエスがいやした出来事、イエスがもたらす救いをあかしする事例として想起される。第一朗読箇所のイザヤ書35章4-7節aも、このような救いの到来を「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」(5節)と約束する預言である。このような主題に即して、イエスのみ業(わざ)を描く写本画も少なからずあるが、今回、表紙絵に掲げられているのは、荘厳のキリストの図である。直接には第二朗読箇所ヤコブ書2章1-5節の冒頭「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)にちなむものになっている。「栄光に満ちた」キリストが、これらの聖書朗読全体を通しても、やはりミサの中で、我々が仰ぐべき主の姿であり、その来臨を待ち望むことが我々の基本の姿勢となるからである。
 荘厳のキリストの図は、ラテン語ではマイエスタス・ドミニ(Maiestas Domini=主の荘厳さ)という画題で定着している。この場合のマイエスタスは聖書の中の「栄光」(ヘブライ語カボード、ギリシア語ドクサ)に対応するラテン語ということなので、「主の栄光」、あるいは「栄光の主」という画題であると考えてよい。
 その図を構成する定型要素が、四つの生き物の姿で描かれる四福音記者である。その構図上の配置は多様だが、この表紙絵では、キリストの上下と左右に配置されている。四つの生き物はすべて翼を有しており、上は鷲、(向かって)右は牛、左はライオン、下に人(翼があるので天使とも説明される)となっている。
 このような四つの生き物の表象は、エゼキエル書1章4-28節に一つの典拠がある。そこでは四つの生き物が言及され、それぞれ四つの顔と四つの翼を有している(5-6節)。四つの顔とはそれぞれ、人、獅子、牛、鷲の顔である(10節)。このほかにエゼキエル10章がケルビムについて記述することも踏まえられながら、新約聖書の黙示録4章では、天上の礼拝について述べるところで、天における神の玉座の周りにいる四つの生き物が言及され、それぞれ獅子、若い雄牛、人間、鷲のようであったと記されている(黙示録4・7)。
 こうした四つの生き物の表象のもとには、古代バビロニアの宇宙観があったと考えられている。太陽が地球の周りを回っていると考えられた当時、太陽の通り道である黄道にある十二の星座が神々の宮(十二宮)と考えられるようになり、その中でも、牡牛座の牛、獅子座の獅子、蠍(さそり)座に関してはこれが不吉だと忌避されて、代わりに鷲、水瓶座にあたる人間という四つの生き物が全世界を四つの角(すみ)から支える存在と考えられ、四つの方角や四季を代表するものと考えられるようになっていた。このような表象がエゼキエル書、ひいては黙示録を通じて、天上の主なる神につき従う存在として昇華され、キリスト教的宇宙観の構成要素となっていく。
 とくに、この四つの生き物が四福音記者に対応させられるようになるのだが、そのためには教父エイレナイオスの神学的解釈の影響がある。彼によると、獅子はキリストの王としての姿、旧約聖書でも小羊と並んで犠牲にされる動物の代表であった雄牛は、自らを奉献する大祭司としてのキリストの姿、人間は、人となって現れた神の御子キリストの姿、そして鷲は教会の上に飛来する聖霊の姿ということになる。そしてエイレナイオスは、マタイを人間、ルカを雄牛に、そしてマルコは鷲、ヨハネは獅子に対応させていた。その後、ヒエロニムスが解釈を膨らませるとともに一部の対応関係を変更する。
 すなわち、マタイ福音書は系図をもって人間としてのキリストの誕生から始めるので人間に、ルカ福音書は祭司ザカリアへの告知から始まるので神殿に奉献される雄牛に、マルコ福音書は荒れ野で叫ぶ洗礼者ヨハネの言及から始めるので咆哮(ほうこう)する獅子に、ヨハネ福音書は永遠の言(ことば)から始めるので自由に飛翔する鷲に相応するとしたのである。この対応論が定着し、伝統となっていく。
 荘厳のキリスト(主の栄光)の図は、これら四つの生き物の象徴をもって四福音書があかしするキリストが天上において神の右の座につき、天地万物を治めている様子を描く。この写本画の場合は、キリストの座が青く波打つ、空間の中に浮かんでいるように描かれ、これが天上を表している。主の姿を包み込む楕円形の後背そのものが、ここでは有限な宇宙を象徴しており、それを上下・左右から四つの生き物が支えているという構図である。ここに古代の宇宙像の名残がある。キリストの背後、それから構図の枠上に記されている文字の中には(全体は判別しにくいが)世界、永遠、天、創造主といった単語が盛り込まれているところからも、その世界観は十分に窺える。
 このような古典的宇宙像は、科学的宇宙像とは次元が異なる宗教的世界観、さらにはキリスト教世界観の表現として今も有意義である。ミサの「感謝の賛歌(サンクトゥス)」において賛美される、「聖なる、聖なる、聖なる神、すべてを治める神なる主。主の栄光は、天地に満つ」のイメージはまさしくこの荘厳のキリストの図である。その意味で典礼的なキリスト像、宇宙観がここにあるといってもよい。
 このような主がいつもともにいることを意識するとき、その姿を心の目で仰ぎ、そのことばを心の耳で聞くとき、我々の心からは、人を分け隔てするような思いは出てくるはずがない――そう戒め、訴えているのが、きょうの第二朗読箇所のヤコブ書2章1-5節である。そこでは、貧富の格差へのとらわれが戒められているが、人間の間のあらゆる差別や偏見、敵対や憎悪、対立や分断に対しても、言われなければならない。荘厳のキリストの図は、我々の目を見えない天上の主に向けさせつつ、そのより高い視点から今の地上世界への眼差しを導こうとしているにちがいない。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第23主日

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