2024年9月15日 年間第24主日 (緑) |
自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい(マルコ8・34より) 十字架のキリスト グルク大聖堂 西側入口扉浮彫(部分) オーストリア 12世紀 きょうの福音朗読箇所は、マルコ8章27-35節。イエスが弟子たちに人々が自分のことをだれだと言っているのか質問した(27節)あと、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(29節)と尋ねる。それに対して、ペトロは「あなたは、メシアです」と答える。メシアとは、すなわち直訳では「塗油された者」、預言の文脈では「待ち望まれた救い主」を意味する。このヘブライ語のギリシア語訳が「クリストース」つまり「キリスト」である。マルコ福音書の展開の中で、決定的な転換点となって、ここからイエスの受難予告が始まり(31節)、十字架の出来事へと向かっていくことになる。 第一朗読では、イザヤ書の50章5-9節a が読まれ、受難の主日のミサでの第一朗読の箇所(イザヤ50・4-7節)とほぼ重なる。B年の年間第24主日は、9月の半ばに来ることが多く、十字架称賛の祝日と近いという関連性からも、約半年後に(暦日的には前後するが)やってくる四旬節や聖週間と同様に、イエスの受難、十字架が主題となる時期となっている。 表紙絵は、そのきょうの福音朗読箇所におけるイエスの明確なメッセージ「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8・34)にちなみ、十字架上のイエスを描く木彫浮彫が掲げられている。全体として木の枝の編み合わせによってアーモンド型のスペースが造られ、その一区画ごとにイエスの出来事のさまざまな場面が描かれている作品である。この十字架のキリストに関して、絵画に見られるような多様な要素は略され、ヨハネ福音書19章26節に基づく定型として、(向かって)左側にマリア、右側に使徒ヨハネが描かれているのみである。表情も素朴で、この出来事(イエスの十字架上での死)の神秘の前に畏れをもってたたずんでいるのみのようである。手を広げ、首を傾け、目を閉じているイエスの表情とその姿は不思議な静謐さに満ちている。 上に引用した、イエスのメッセージにはさらに「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者はすそれを救うのである」(マルコ8・35)は、一種の逆対応型の対句表現で、鮮やかに耳に残り、キリスト者にとっての格言的教えとして心に残る。最初の福音書とされるマルコ福音書の冒頭(1章1節)の「神の子イエス・キリストの福音の初め」との対応も考えれば、「福音のために命」を失うことへの呼びかけが、マルコを貫いていることがわかる。福音という語の奥には、イエスの受難の出来事、十字架のイエスの姿がいつもあるということである。 ところで、きょうの福音朗読の主題句は「『あなたは、メシアです。』人の子は必ず苦しみを受ける」となっており、29節と31節の要約である。朗読聖書の主題句とは、その箇所の主題を提示するというよりも、その日の聖書朗読配分、とりわけ、年間主日の場合は、福音朗読と第一朗読(旧約朗読)との関連を明示する役割がある。きょうの第一朗読主題句の場合は、「わたしは、打とうとする者には背中をまかせた」(イザヤ50・6より)となっており、十字架というよりも、それに向かうプロセスにおける苦難の具体的な内容をさす一節となっている。そのような苦しみを受けても「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない」(50・7)という、この場合、苦しむ主の僕の信仰心に焦点を合わせる朗読箇所の選択となっている。答唱詩編(詩編116・1-9)もそのような信仰心を歌い上げる。 福音朗読箇所の受難予告の言葉にも、そのような道を行く中でも、父である神にすべてをゆだねて歩んでいくというイエスの信頼の心と救いのために遣わされている使命に従うというイエスの決意が表明されている。それに対しての、「あなたはメシアです」というペトロの信仰告白は、イエスに起こりうるすべてのこと、そしてイエスの心のすべてを了解してのものであったのだろうか。その次第は、受難に関する叙述の中で明らかになってくる。いずれにしても、主の受難と復活を経験してからの使徒たちの宣教は、はっきりそれらを悟った上でのものとなっていく。 きょうの福音朗読箇所は、イエスの「わたしを何者だと言うのか」という問いかけと弟子たちの対応をめぐるあらゆる出来事への予感に満ちた箇所である。そして、我々は、それらがすべて踏まえられたところで、聖書朗読を聞き、感謝の祭儀(ミサ)を通して、キリストのからだに結ばれるのである。ミサにおける我々の主に対する告白や賛美のうちに、受難予告の内容――苦しみを受けて、殺され(死に)、三日後に復活する――がいつも想起されている。この過越の神秘がすべての典礼の核心をなし、我々はいつもそこを巡り、その神秘に招かれ、それにあずかっている。 日本語ミサの聖体拝領前の信仰告白として、今も選択肢として残されている「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう」は、直接にはマタイ16章16節「あなたはメシア、生ける神の子です」と、ヨハネ6章68節「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」を組み合わせたものである。「あなたは神の子キリスト」という宣言は、きょうのマルコの箇所の「あなたはメシアです」と意味は同じであると言ってもよい。 きょうのマルコからの福音朗読箇所は、我々のミサでの信仰告白に直結している。その関連を意識し、一人ひとりのキリストとのつながりを深めていくのが大切であろう。表紙絵に掲げられた十字架上のイエスのみ顔は、静かに我々を招いてくれている。 |