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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年9月22日 年間第25主日 (緑)  
わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れる
 
子どもたちを祝福するイエス
オットー三世朗読福音書
ミュンヘン バイエルン国立図書館 11世紀

  きょうの福音朗読箇所はマルコ9章30-37節で、弟子たちの間での「だれがいちばん偉いか」(34節)の議論のことが出てくる。これに対して、イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(35節)という印象深いことばで答え、続いて、一人の子どもの手を取って、弟子たちの真ん中に立たせて、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(37節)と告げる。ここの教えは、単に人間関係的な次元で、偉ぶらずに謙遜でいなさいということを言うだけではない。その謙遜さの根源には、神を受け入れ、神に仕える姿勢がなくてはならないというかたちで、キリストの弟子であること、キリスト者であることの本質が明らかにされているのである。
 この文脈では、子どもは、もっとも小さな者を受け入れることを例示する意味で登場している。表紙絵に掲げられた絵は、実は、完全にこの場面に対応しているわけではないが、子どもに対するイエスの姿勢、眼差しを表現する作品として、きょうの場面に十分に関係づけて鑑賞することができるだろう。
 中世の写本画では、子どもの姿はその実際を写実するものではない。この絵でも、よく見ると、風情も衣装も大人のようである。ただ、体が小さいだけである。文字通り小さな人という見方で描かれていることが興味深い。ここでは、子どもは7人。この数に意味があると考えることももちろんできるが、イエスの姿がその真ん中にあり、両手で子ども全員を保護する姿勢を示している。子どもたちのイエスに向かう真っ直ぐな顔と眼差しが印象深く、かつ感動的である。
 この姿のうちに、神により頼む者、救いを願い求める者と心をすべて感じ取っていくことが大事である。それは、弱く、小さく、救い主に頼るしかない存在、すべての象徴である。キリストを仰ぐ同じ背の高さの小さな人間たち、そこには、だれが偉いかを競う心もない。
 きょうの第二朗読のヤコブ書3章16節~4章3節では、人間の間での「ねたみや利己心」(3・16)、「偏見」「偽善」(3・17)、「戦いや争い」(4・1)が語られ、それに対して、「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています」(3・17)と、神に従って生きる生き方の尊さを述べている。この絵の中の子どもたちのキリストを仰ぎ、その力、祝福、知恵を受けようとする姿の中に、むしろキリスト者の本質が示されている。真の平和の根源も、まず神に従う従順のうちにある。
 そのように人に求められている、神に向かう姿勢を代表しているのが、この図の子どもたちの姿だろう。
 これらのことをすべて実現し、高めていくための原因は、やはりこの図のキリストの頭の光輪に見える十字架である。きょうの福音朗読の場面も、二回目の受難予告(マルコ9・33)があって、それからカファルナウムに来てからの展開である。イエスが弟子たちに求める自分を受け入れることへの教え、それがひいては「わたしをお遣わしになった方」(37節)、つまり父である神を受け入れることになる、という教えは、究極的に、十字架上で自分自身をすべての人のあがないのために神にささげたことにつながっていく。自分を受け入れることを弟子たちに呼びかける教えは、十字架で自分自身をささげるところのキリストを受け入れることに向かっていく。
 じっさい弟子たちがこのことを悟るのも十字架、そして復活を体験してからのことであり、キリストの真の弟子になるのはその時である。そういったすべてのプロセスが、ここのイエスの高貴な衣をまとった姿に凝縮されている。十字架で自分をささげ、復活によって、救い主であることがあかしされ、いまや主として、父である神の右の座に着き、人々を見守っているキリストの姿があくまでもこの図の中心である。
 それは、ミサにおいても、神の民の共同体とともにいるキリストの姿を映し出している。我々は、ここにいる子どもたちのように、主を仰ぎ、主により頼んでいる。「いつくしみをわたしたちに」と繰り返し願う中に、御父である神と御子キリストを受け入れ、信頼する心が端的に告げられる。神を第一に愛し、礼拝することへの決意が明確に告げることばは、もっとも小さな者たちを受け入れ、隣人愛に尽くすことへの決意表明でもある。「いつくしみをわたしたちに」願う心からヤコブ書の言う「義の実」(ヤコブ3・18)が平和のうちに蒔かれることになる。「義」=神との関係の正しいあり方を我々の日常の中でたえず回復してくれるのが、感謝の祭儀に現存されるキリストにほかならない。この絵の中には、ミサにおられる主の姿がある。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第25主日

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