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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年9月29日 年間第26主日 (緑)  
わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである  (マルコ9・40より)
 
信じる人々を迎えるキリスト
浮き彫り
フランス ヴェズレー サント・マドレーヌ大聖堂
12世紀

 中世の大聖堂の壁面の浮き彫りには、しばしば終末にキリストが訪れ、信者の生き方に応じて報いを決める、いわゆる最後の審判を主題にする図が描かれた。ニケア・コンスタンチノープル信条で「主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」と告げられる内容の具象化である。その場合、マタイ福音書24章31-46節などを踏まえて、キリストの左右に、一方で「祝福された人々」、他方で「呪われた者ども」を描くというような構図もしばしば見られる。表紙絵の図の場合、むしろ、栄光に再び来られているキリストの姿に焦点が合わせられているように感じられる。しかも、このキリストの両手を広げている姿、とくにその左右の手の大きさが、むしろ、人を招いている、救い主キリストを映し出しているように感じられる。
 その点が、きょうの福音朗読箇所マルコ9章38-43、45、47-48節の内容と、第二朗読箇所ヤコブ5・1-6節を踏まえての表紙絵作品、つまり鑑賞対象とされている理由である。
 福音朗読箇所も、第二朗読箇所も、ある意味で、とても厳しい内容である。とくに朗読の後半マルコ9章42節以降の部分は、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」(42節)に対する、永遠の罰(地獄)を告げる内容である。しかし、より積極的な内容は、「キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(41節)にある。ある種ここでも、キリストの弟子である人々の生き方、宣教のあり方に対する、最後の審判の予告があるといえる。永遠の罰(地獄)と永遠の報い(神の国の受け継ぎ)が語られているからである。
 第二朗読のヤコブ書も、流れとしてはC年の年間第22主日から25主日まで続く準継続朗読であるが、きょうの福音のテーマとも極めて深く響きあっている。ここもかなり具体的に、富裕な地主たちの労働者に対する措置が糾弾されており、その中で「終わりの時」(ヤコブ5・3)、「屠られる日」(5節)などの語句で最後の審判の時が予告されているのである。
 しかし、こうした、良くない状態の人々への厳しいことばの根底には、救い主キリストへの信仰への招きがあることを見失ってはいけないだろう。限られた箇所だけの印象に左右されないことが重要で、福音書も使徒書も、中心にはいつも主キリストがいることを見失ってはならない。そういう意味で、この表紙絵にある作品のようなキリスト像が黙想の支えになる。
 荘厳のキリストという表現形式、またそこに不可欠な定型要素となっている四福音記者のシンボルについては、このコーナーの9月8日の「聖書と典礼」の表紙絵解説で詳しく書いたので参考にしていただきたい。この浮き彫りの中でも、四つの生き物は鮮やかに造形されている。キリストの開かれた両腕の(向かって)右側には 有翼の人(マタイの象徴)、左側には、有翼の牛(ルカの象徴)、そしてキリストの足の(向かって)右側には、鷲(ヨハネの象徴)、左側には、有翼の獅子(マルコの象徴)である。この四シンボルが栄光の後背の四隅を押さえており、これが全宇宙の主であるキリストの存在を示す役割をしている。(向かって)左端(キリストの右手の下)いる女性はマリアではないかと思われる。その反対側にいる女性は天秤を持っている。その天秤には、祝福される人と罰せられる人が乗っており、この部分(写真画面上、切り取られている)において最後の審判をイメージさせる部分である。
 ここまで、キリストの来臨と最後の審判という、終末の出来事に向けて教えとして福音朗読と第二朗読を眺めてきたが、福音朗読箇所の初めに言及されているのは、イエスの弟子の一人(ゼベタイの子)ヨハネがイエスの名前を使って悪霊を追い出している者がいるのを目撃して、そのことで「わたしたちに従わないので、やめさせようとした」(マルコ9・38)という報告をしたというくだりである。それに対してイエスは、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方である」(39節)と答える。ここで、「わたしたちに従わない者」と「わたしたちに逆らわない者」を区別する微妙な教えが含まれている。推測されるのは、狭い意味でのキリストの弟子であることのほかに、もっと広いキリストの弟子たちの存在があり、イエスの名の力をもって活動している人たちがいたということである。イエスの名の働きは、狭い意味での弟子たちの範囲を超えていること、イエスのもたらす救いのわざの源はもっと多くの人たちを揺り動かしてしたようである。
 ここから、限定されたキリストとその弟子たちの関係を超えて、イエスの中の源にある神御自身、そしてその神の霊の働きとして、神の国の宣教という事象は見なくてはならない、ということが教えられる。このような観点に導くのが、まさしくきょうの第一朗読箇所である民数記11章25-29節である。その末尾のモーセのことば「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」(29節)とある。
 救いのわざ、神の国の宣教は、神御自身のなすことであるという原点に立ち返らせようとしていることも、きょうの聖書朗読のポイントである。日々、聖堂に集い、感謝の祭儀をささげ、キリストとともにあることを実感しつつ、毎日を送りたいと思う我々であるが、同時に、神の働き、聖霊の働き、イエス・キリストの名の働きは、世界中、至るところにある、ということにも心を開かなくてはならない。その意味を問いかけ、我々自身に求められていることを探っていくのも大切である。神の恵みは限りない。そのことに心を開き、この図像のような、キリストの大きな招きの手を実感しながら、日々を過ごしていくのみであろう。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第26主日

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