2024年10月20日 年間第29主日 B年 (緑) |
人の子は、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た(福音朗読主題句 マルコ10・45より) 十字架のキリスト ローマ サン・クレメンテ聖堂の内陣モザイク 1128年頃 十字架上のキリストの両脇にマリアと使徒ヨハネが描かれる図、磔刑図の定型であるが、このモザイクでは、そのほかにさまざまな形象が装飾的といえるほどに加えられている。十字架の縦横の木に描かれる白い鳥は、聖霊を示す鳩であろう。十字架の上には、天から突き出された右手がある。これは神の働きかけを伝統的に表す形象である。鳩が意味するものから考えても、ここには聖霊が降り注ぐ様子が描かれていると考えてよいだろう。全体の背景は、金色で神の栄光の満ちあふれる様子が迫ってくる。またそこに描かれる植物の蔓(つる)は無限に展開していくようで、鑑賞しているうちに、無限の展開力を有している不思議な空間に思わず吸い込まれていくように感じられないだろうか。 これが、このモザイクに示された十字架の神秘の意味であろう。ちなみに、イエスの足は十字架に釘付けにされているというよりも、足台の上に立っているように描かれる。体も重みで屈曲するのではなく、直立していて、イエスの頭が傾いていて死んでいるように見えるだけで、その両腕もむしろ、祝福する動作のように描かれている。これも、イエスがただ死んだのではなく、やがて復活し、天の座に着く方であるという含蓄をもって描かれているしるしなのであろう。描かれているのは、イエスの死の悲しみではなく、イエスの死と復活の神秘、すなわち主の過越の神秘である。そのことを強く感じさせるのは、両脇のマリアと使徒ヨハネであろう。その姿は、磔刑図にしばしば見られるような悲嘆の表情ではなく、神の子イエス・キリストを万人に示そうとして手を差し伸べる姿である。彼らは明らかに主の証人としてここに立っている。 今回はモザイク作品の鑑賞から入ったが、この十字架のイエスの姿は、もちろん、きょうの聖書朗読にちなんでいる。不思議とすべての朗読が十字架上のイエスの姿に集約されていくのである。まず、福音朗読箇所マルコ10章35-45節、弟子たちが自分たちの優位を競うような議論をしているところに、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕(しもべ)になりなさい」(43-44節)と戒める。その仕える姿勢をまさしく示しているのが自分である、ということを「人の子」を主語として語るのが次のことばである。「人の子は、……多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)と。 マルコの文脈では、この10章の32-34節で三度目の受難予告があり、それに続くのがきょうの朗読箇所である(この流れは、マタイ福音書20章17-28節でも同じである)。イエスの予告する受難の意味を弟子たちはまったく分かっていなかった事実、それを踏まえて、自らの死の意味を語りだすのがこの「身代金」をキーワードとすることばである。ここにイエスの死が贖(あがな)いの死と呼ばれるようになる理由がイエス自身のことばとして告げられているという意味で重要な箇所である。 第一朗読では、この自分の命を献げ物にすることについて、イザヤ書53章の「苦しむ主の僕」について「彼は自らを償いの献げ物とした」(イザヤ53・10)、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(11節)と告げられる部分が読まれる。この箇所は、聖金曜日の主の受難の典礼で、受難朗読に先立って、その第一朗読として読まれる箇所(イザヤ52・13~53・12)に含まれている。 第二朗読の箇所ヘブライ書4章14-16節でも、十字架上で自分の命をささげて、復活して神の右の座に着いておられる(ヘブライ1・3参照)キリストを「大祭司」というイメージで語っていく。朗読箇所の中では、「この大祭司は、……罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4・15)と十字架の出来事を語っている。この主題は、続く5章1-10節でも展開されるが、これらの一連の箇所は、やはり聖金曜日の主の受難の典礼の第二朗読(ヘブライ4・14-16;5・7-9)とも重なる。 このようにきょうの年間第29主日B年は、聖金曜日の主題と関連しているところが特色である。キリスト者にとっては、その信仰生活の出発点になる十字架の主の姿は、すべての人への神のメッセージである。この神秘の深さをあらためて自覚し、世の中の人々に伝えていく道を考えることが、ミサに集い、ミサから派遣される我々の使命なのであろう。この神秘のもつ力を、たえず生き生きと感じていくためのヒントをこのモザイクの不思議な画像世界から汲み取ってみよう。そこから、「地に住むすべての人に目を注がれる」(答唱詩編の詩編33・14、典礼訳)神のまなざしを感じることができたら幸いであろう。 |