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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年10月27日 年間第30主日 (緑)  
「わたしは、目の見えない人も、歩けない人も、慰めながら導く」(第一朗読主題句 エレミヤ31・8-9より)
 
預言者エレミヤ
クラウス・スリューテル作
フランス シャンモル 
旧カルトゥジア会修道院 1400年頃


 きょうの福音朗読箇所は先週の箇所にすぐ続くマルコ10章46-52節。仕える者となりなさい、という弟子たちへのメッセージと、自分自身、贖いの献げ物となるために来たという自己自身についての表明があった後、話は、目の見えない物乞いバルティマイをいやす場面である。男は目が見えるようになっただけでなく、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(51節)と告げられる。
 これはバルティマイがイエスの到来を聞いて、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」(47節)、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(48節)と叫んだことについて言われている。救ってほしいという願いにとどまらず、この語には「ダビデの子」ということばのうちに救い主(メシア)への信仰告白が含まれていることも述べられている。その信仰告白を通して、救い主としての力が働き、それによって目がいやされることになる。さらにいうと単にこれは目が治ったことを喜ぶだけではない、この男の態度が最後に述べられている。彼は、「なお道を進まれるイエスに従った」(52節)とあるように、イエスの弟子の一人となったのである。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(51節)ということばは、彼に取っては、召命のことばだったのであろう。とても含蓄に富んだエピソードの語りである。
 表紙絵は、この福音書に直接にちなむものではなく、むしろ、第一朗読で読まれるエレミヤ書31章7-9節にして、預言者エレミヤの像になっている。エレミヤ書という文書、そして預言者エレミヤという人にも関心を広めていくことで、イエスの到来、その行い、ことばの歴史的な背景にも目を向けつつ、我々の理解を深めていこうという趣旨である。エレミヤは、この日の『聖書と典礼』の簡潔な説明からわかるように、紀元前10世紀にイスラエル王国が南北に分裂して、北はイスラエル王国、南はユダ王国となったということが前提としてある。そして紀元前720年に北のイスラエル王国はアッシリア帝国によって滅ぼされた。南のユダ王国の預言者エレミヤは、紀元前600年前後に活躍した人で、朗読箇所になっているエレミヤ書31章7-9節は、北のイスラエル王国の回復を予告する箇所となっている。その予告も「主よ、あなたの民をお救いください。イスラエルの残りの者を」(7節)という嘆願から始まっている。預言の中の主のことばからすると、「お救いください」という願いと相前後して、主の救いのわざは果たされるという前後関係のようである。
 このような文脈が、バルティマイの叫び(信仰告白)と目のいやしという救いのわざの関連を生き生きと示すことになっている。エレミヤという預言者自身も、歴史の転換期にあたって、大変大きな役割をした人物である。キリストの受難を思わせるほどに、苦難を体験する預言者でもある。この機会に、エレミヤにも関心を向けてみるのも、旧約聖書がミサでよく読まれるようになった今の学び方の一つの方法である。
 表紙に掲げられたエレミヤ像の作者について美術史情報にも興味深いものがある。作者クラウス・スリューテル(生年不詳、没年1405/06年)は、ネーデルラント(現代のオランダ、ベルギーの地域)の彫刻家。ハールレム出身だが、1385年以後はフランス、ブルゴーニュ地方のディジョンで活躍したという。そのディジョン近郊シャンモルのカルトゥジア修道会の修道院の彫像を製作していた師が1389年に亡くなったあと、その仕事を引き継いだ。ゴシック時代の彫刻から、人物像を生き生きと表現する写実的な彫刻に展開していく転換期を示す作家といわれる。このエレミヤ像にも示される衣服の襞(ひだ)を克明に彫像として表現する技が持ち味であった。預言者が託されている神のことばの重要性とその豊かさが、分厚い本と開かれた巻物との両方で描かれているところが注目である。
 さて、そのエレミヤ書の朗読では「主よ、あなたの民をお救いください」(エレミヤ31・7)という嘆願のことばがあった。しかし、導入句には、「声を響かせ、賛美せよ。そして言え」とあり、主に向けられたそのことばは賛美の表現でもあることが示唆されている。福音朗読箇所のバルティマイのことば「ダビデの子イエスよ(または)ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」(10・47、48)でも、救い主イエスに対する認識(信仰告白)と賛美が含まれているのであり、単なる嘆願ではない。むしろ嘆願を差し向けることのうちに、その方の神性への賛美と信頼・信仰が表明されていると見るべきだろう。このことは、ミサの「いつくしみの賛歌(キリエ)」や「栄光の賛歌(グロリア)」、「平和の賛歌(アニュス・デイ)」に含まれる「いつくしみを(わたしたちに)」ということばにも通じている。これらの表現は、「あわれみたまえ」といった従来の訳から連想されるような嘆願にとどまるものではない。むしろ、主に対する賛美が貫かれているというべきだろう。それゆえにこの表現を含む歌全体が「賛歌」とされて式次第に位置づけられているのである。救いを求める旧約の民、そしてイエスに叫んだバルティマイの心は、感謝の祭儀に集い、主を仰ぐ、我々の心の中に脈々と生きている。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第30主日

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