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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2024年11月10日 年間第32主日 B年 (緑)  
キリストは、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた(第二朗読主題句 ヘブライ9・28参照)

十字架のキリスト
板絵
イタリア ペルージア ウンブリア国立美術館 13世紀

 きょうの福音朗読はマルコ12章38-44節、短い場合には、12章41-44節となっており、その共通の箇所は、いわゆる「やもめの献金」と呼ばれるエピソード。「乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」(12・44)ことでイエスによって称賛されているやもめの話である。この出来事を前もって示すものとして、第一朗読では列王記上17章10-16節の預言者エリヤに奉仕するやもめのエピソードが読まれる。
 このような主題を踏まえつつ、表紙絵では、直接には第二朗読のヘブライ書9章24-28節の一節から取られた主題句「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」(28節)にちなみ、十字架のイエスを描く板絵が掲げられている。
 自分の持っている物をすべて献げた貧しいやもめの姿は、それが弟子たちの務めである、というような訓戒的なメッセージよりも、そのやもめの称賛の先に、自分自身をすべて献げようとしているイエス自身の生き方、その道筋が示されているとも思われるからである。その先に、感謝の典礼で、いつも記念されるイエスの死と復活がある。いわゆる過越の神秘である。
 板絵の十字架は、単なる十字架だけでなく、磔刑図のさまざまな要素を描くスペースも組み込まれた形状になっている。十字架上のイエスの身体は、力なく屈曲し、目も完全に閉じられている。すでに死んでいる姿であることが示される。脇腹から血が流れ、手足には釘を打たれた傷もある。とはいえ、写実的というより、この死の経過と事実をさりげなく示すといった描き方である。イエスの両手の先には、(向かって)左にマリア、右に使徒ヨハネがいる。彼らは磔刑図の一般的な構図では十字架の下、イエスの両脇に配置される存在である。ここでのマリアもヨハネもうつむいてイエスの死を嘆いているようである。
 イエスの足のところ、しばしば磔刑図で描かれる足の台のような位置にも一人の人物が描かれている。これは、この場合、この十字架図を描かせるいわば発注主にあたる人(この場合は、修道士に見える)が、この製作の理由である十字架のイエスに対する礼拝をしている姿勢で描かれる慣例にならうものであろう。
 十字架上のイエスの頭の上には、両手を掲げて、いわゆる「オランス(祈る人)」の姿勢をとっている人物がいる。その姿、表情は判然としないが、オランスが祈る教会の象徴と考えられるとすれば、ここでもおそらくそれを示すものだろう。両脇には翼が明らかな二位の天使がいる。
 そしてその上、最も上の円形のスペースには、全能の主としてのキリストが描かれている。左手に書(神のことばを示す)、そして右手は祝福および神の権能を示す意味で、前に差し出されたかたちで描かれている。明らかに天において神の右の座におられる主キリストの像である。
 このような全能の主キリストが構図の頂点にいることで、この板絵全体のもつメッセージは深まってくる。これは、まさしくイエスの死と復活の神秘、過越の神秘を画像化したものと言ってもよいだろう。そう考えると、この十字架のイエスの姿も、ただ地上への重みで下のほうに向かっているのではなく、そのまま両手を広げて、祝福のうちに天の昇っていくという方向を含蓄しているように感じられてくる。いずれにしても、過越の神秘そのものに向かい合っている内容である。
 さて、きょうの福音朗読箇所で読まれる「やもめの献金」は、マルコ福音書の文脈では、11章27節から始まるエルサレム神殿の境内でイエスがユダヤ教の指導者たち、祭司長、律法学者、長老たちと問答を繰り返すという流れの最後のほうに位置づけられている。きょうの福音朗読箇所(長い場合)の前半にあたるマルコ12章38-40節も、群衆たちに向かって「律法学者に気をつけなさい」(38節)と訓戒する一節で、さらに賽銭箱に大勢の大金持ちが比較的たくさんの献金しているわきで、貧しいやもめが大金持ちよも多くの献金をしたことに注目を向けさせて、冒頭で述べたような称賛になる。そして、次の13章1節では神殿の境内を出ていくときに、神殿の崩壊を予告し、終末についての教えが展開されるのである。
 このように見ていくと、自分の持っている物をすべて献金することの称揚にも、ある種の終末論的な意味を持つ呼びかけが含まれているように思われる。終末とはキリスト教においては、キリストが再臨し、信者の生き方、世の人々の生き方を裁く時である。この終末における主の到来を意識し、待ち望むことのうちに、キリスト者の生き方がある。それは、いつも自分自身の生活の根底を見つめ、それらを神の意志のために献げ、自分自身が仕える者となることが眼目となる。第二朗読が教えにように、キリストの一度限りの最大の自分自身の奉献という出来事に連なる生き方が、日々求められているのであろう。感謝の祭儀(ミサ)は、いつも過越の神秘を記念し、自らをささげられた主のからだをいただき、それによって養われる。そのことの意味を雄弁に告げるきょうの聖書朗読の全体である。
 この終末論的生き方(終末の主の来臨をいつも意識して、地上の生活を送ること)への呼びかけが、来週の年間第33主日、その次の王であるキリスト、そしてその翌週の待降節第1主日と、続いていく。

 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(B年)●典礼暦に沿って』年間第32主日

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