2024年12月1日 待降節第1主日 C年 (紫) |
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくる(ルカ21・27より) 審判の座のキリスト 祭壇周りの金の浮き彫り ドイツ アーヘン教会 1000年頃 待降節は、教会生活の中では主の降誕(クリスマス)に向けての準備の季節として理解されて始まり、アドベント・カレンダー、アドベント・クランツなどが、家庭や教会のこの季節を彩る。とはいえ、待降節第一主日の主題は、終末における主の再臨であり、待降節を通してのこの待望の中で、第一の来臨のことが想起されてくるという展開が特徴である。 きょうの福音朗読箇所ルカ21章25-28、34-36節で、イエスは、さまざまな天変地異ののち、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」(ルカ21・27)と約束する。それは、「解放の時」(28節)と言われるが、同時に、その時、その日は、裁きの日でもある。その裁きに備えて、人々に向けて「あなたがたは、……人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい」(36節)と呼びかける。「人の子」とは、結局は、主イエス・キリストである。したがって、その時、その日のことは、第二朗読箇所(一テサロニケ3・12~4・2)では「わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき」(13節)だと示されている。同じ一テサロニケ書では「主が来られる日」(4・15)、「主の日」(5・2)と呼ばれている。この日に向けて備えていなさいというメッセージは、待降節第1主日の共通のテーマである。A年のマタイ24章37-44節では、「目を覚ましていなさい」(24・42)、「用意していなさい」(24・44)と呼びかけられ、B年のマルコ13章33-37でも「気をつけて目を覚ましていなさい」(13・33)、「目を覚ましていなさい」(13・37)と繰り返される。 この日の意味合いにちなみ、栄光のうちに来られる主キリストを描く金色の浮彫りの図が表紙絵に掲げられている。ここでは、審判者として玉座にいるキリストが描かれるが、イコンの姿と同様に左手に本(神のことばの象徴)、右手には、先端が十字架になっている牧杖を握っている。神の権能の象徴である。浮き彫り造形であるために、光のあたり方が栄光のうちなる来臨という出来事への想像も膨らませる。 このような主キリストの姿は、集会祈願の結びに「聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって」と唱えられる、御父の右の座にあり、御父とともにおられる方のイメージである。ニケア・コンスタンチノープル信条において「主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます」と宣言される待望のうちにある姿である。 ともにいる方であり、終末において神の国の完成のために来られる方であること、この現存と来臨の両方の姿がこのような造形を通してイメージされる。それは、ミサにおけるキリストのあり方とも対応している。「主は皆さんとともに」と告げられるように、ミサにおいて神の民のうちにキリストはおられるが、これはことばやしるしの象徴のもとにある現存である。その現存が完全になるのは、主が来られる終末の時、主の日である。 この“主の日”に向けて、我々の“主日”の感謝の祭儀はささげられていく。まさしくそれは「いつも目を覚まして祈りなさい」(ルカ21・36)という呼びかけに応える営みである。もちろん、これは一人ひとりにも呼びかけられていることであるが、神の民として互いに助け合いながらこれを共同で行っているというところに感謝の祭儀の意味がある。「信仰の神秘」-「主よ、あなたの死を告げ知らせ、復活をほめたたえます、再び来られるときまで」(ミサの奉献文の記念唱の一つ)と一同で唱えている通りである。きょうの福音は、やはり、主日ごとのミサの意味合いを深く語っているのである。 待降節は、日本語では、降誕祭を待つという意味で理解されがちだが、欧米語表現の源であるラテン語の原語はアドヴェントゥス(Adventus)であり、直訳すれば「到来・来臨」である。待つという行為の源になによりも神の子の来臨という恵みがある。待つことは、その恵みに込められている神のみ旨に沿う姿勢にほかならない。このような姿勢を身につけるのが待降節である。 |