2024年12月15日 待降節第3主日 C年 (紫) |
その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる (ルカ3・16より) イエスの洗礼 ハフパットの典礼用福音書 挿絵 アルメニア エレヴァーン マテナダラン図書館 11世紀前半 表紙絵は、洗礼者ヨハネによるイエスの洗礼を描く東方教会の福音書挿絵が掲げられている。きょうの福音朗読箇所ルカ3章10-18節での洗礼者ヨハネのことば「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。……その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(16節より)で言及されている「洗礼」にちなむものである。ルカ福音書によるイエスの洗礼の箇所自体は、きょうの箇所の後の3章21-22節で簡潔に叙述される。 この画自体は、ある種、事柄を端的に描き出す。水の流れを背景に裸のイエスが立ち、その頭の上に洗礼者ヨハネが手を置いている。そこに天から鳩が降りて来ているが、これはルカでも「天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(ルカ3・22)にも対応する。洗礼者ヨハネの洗礼授与の務めを助けるように天使たちが描かれるのは、すでに古代から、また東方のイコンにおいても定型的図像要素である。 前回も確かめたが、待降節(A年・B年・C年とも)にはその第2主日、第3主日には洗礼者ヨハネが登場する。それは、もちろん救い主の訪れを準備し予告する方として、である。東方教会では、ヨハネのことを洗礼者というよりも、前駆者といった称号で呼ぶことがメインであることにも、その意識が十分に示されている。そして、現在はC年の待降節第3主日に配分されている、きょうのルカ福音書3章10-18節の箇所は、年が明けて主の公現の次の主日に祝われる「主の洗礼」の福音朗読箇所ルカ3章15-16、21-22節とも、一部重なっている。そこまで、待降節と降誕節の終わりの主題が対応し合っている。待降節第4主日から、主の降誕、神の母聖マリア、主の公現と展開する中では、マリアと幼子イエスがクローズアップされていくが、その前後の待降節第3主日と主の洗礼では、洗礼者ヨハネとイエスの結びつきがクローズアップされている。このような対応関係は、ルカ福音書の場合、すでに1章、2章においても重要であることは、前回も触れとおりである。 きょうの福音朗読箇所の末尾に、「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」(18節)ある。福音を既にヨハネが告げ知らせている。このような言及の背後には、先週の福音朗読箇所で引用されていたイザヤ書40章3-5節を含むイザヤ書40章のメッセージ全体が背景にあると思われる。その40章9節では「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ」という箇所があるからである。洗礼者ヨハネの到来とその告知自体がすでに福音であるのは、前提となる預言書からわかる。その告知のうちにイエスの到来がすでにあかしされている、という意味でもそれは福音といえるのである。 待降節3主日が伝統的に「喜びの主日」と呼ばれ、典礼色に喜びを表すバラ色を使用することもできる。それは、このC年のルカ福音書の朗読によく反映されているが、さらに第二朗読箇所が入祭唱の「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)の出典箇所であるフィリピ書4章4-7節であることも重要である。そのことを念頭に置きつつ、もう一度、待降節第3主日としてのきょうの主題に注目しておこう。 福音朗読の主題句は、「わたしたちはどうすればよいのですか」となっている。福音朗読箇所(ルカ3・10-18)の前半に三度、最初は群衆(10節)、次に徴税人(12節)、最後の兵士(14節)の問いかけとして登場する文言である。これらは洗礼者ヨハネが救い主(メシア)ではないかと思うところから、自分たちの生き方を問いかけるものとして提示されている。ヨハネはそれぞれに勧告を述べるが、真実の答えは「わたしよりも優れた方が来られる」(16節)ことに集約される。そこで予告されるのは、「その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(16節)ということである。ここで言われる「洗礼」とは、神の裁き、信仰の試練、イエスの受難への歩みまでを含む深い意味を有している。これらをもたらす、真の救い主に対して向けられるべき「わたしたちはどうすれはよいのですか」という問いは、今、キリストに対する我々の問いかけそのものもとして、読まれるべきものなのだろう。そこに待降節としての主題がある。「喜べ」という呼びかけには、回心の呼びかけを含みつつ、それを超えて、もっと積極的な信仰の決断への呼びかけが含まれているはずである。 |