2024年12月25日 主の降誕(夜半) (白) |
今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった(福音朗読主題句 ルカ2・11より) 羊飼いの礼拝 油彩画 エル・グレコ作 個人蔵 1567-70年 16世紀後半から17世紀初めまで活躍した、ギリシア、クレタ島出身のスペインの画家エル・グレコ(1541~1614)の作品。本名はドメニコス・テオトコプーロスだが、「ギリシア人」という意味のエル・グレコで知られる。1567年ごろからベネチアに渡り、ティツィアーノやティントレットの画法を学び、1570年からローマ、1576年からはトレドに在住、終生そこで活動した。表紙絵の「羊飼いの礼拝」は、クレタ島からベネチアに渡ってまもない頃の作品。ベネチアの画家たちが好んで描いた画題だった。 作画の典拠は、もちろん、きょうの主の降誕・夜半のミサの福音朗読箇所ルカ福音書2章1-14節である。その中心は、「彼ら(=ヨセフとマリア)がベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2・6-7)にある。ここでは飼い葉桶を覆う白い布の上に裸の幼子が寝ている。光が照っているが、どこからか射し込む光ではない。外は闇夜である。幼子自身から光が発していると考えざるを得ない。その傍らで手を合わせて祈っているマリアはどこか別の方を見つめている。マリアは半身、イエスからの光を浴びている。ヨセフはその後方に目立たぬように描かれている。白髪白髭の老人として描かれているのが特徴である。その後ろ、不思議な光に照らされている。画面の(向かって)右側には、三人の男性が描かれている。真ん中の一人が羊を抱えているように彼らは、福音書に「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」(ルカ2・8)とある羊飼いたちである。 幼子の上には薄闇の中で判別しにくいが、ろばと牛が描かれている。これが降誕図の伝統的な定型要素であることは知られている。イザヤ1章3節の「牛は飼い主を知り、ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず、わたしの民は見分けない」という文言が、その典拠となっている。本来、イスラエルの民に対する叱責、回心の呼びかけを含んでいるこの預言のことばから、降誕の救い主を知る者の代表として牛とろばが描かれることになった。やがて、牛はユダヤ人を、ろばは異邦人を意味するとの解釈も加わるが、いずれにしても、「すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました」(テトス2・11。降誕・夜半ミサの第二朗読箇所テトス2・11-14の冒頭のことば)ということを示す表象として長く定着した。ここでもその伝統を引き継いでいる。 画面の(向かって)右奥には、白馬に乗った軍勢らしき群像が描かれているが、これが主の天使が救い主の誕生を告げたところ(ルカ2・9-12参照)、「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」(2・13-14)の部分を描くものである。 伝統的な要素(幼子、マリア、ヨセフ、羊飼いたち、天の大軍、ろば・牛など)すべてが取り込まれつつ、立体的な造形によって現実味を持たされているのが特徴である。このように、救いの神秘の現れとなる出来事が地上の光景の写実的立体的描法をもって表現されるところに、現実と神秘の深い交わりが感じられる。それは、ルカ福音書の語りを聞きながら場面を想像するときの一つの近代的な具現化と言えるかもしれない。写実性の効果は、とくに絵の場合、夜の闇の表現に出てくる。この作品も夜の暗闇と幼子の光との対照が鮮やかである。降誕・夜半のミサの聖書朗読は、第一朗読箇所と福音朗読箇所によって光と闇の対比が前面に出ていることをより深く味わえる。第一朗読箇所(イザヤ9・1-3、5-6)は冒頭で「闇の中の歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」(1節)と告げる。そこに「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」(5節)。「その名は、驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君と唱えられる」(5節)のであった。 この内容は、福音朗読箇所ルカ2章1-14節の中の10-11節の、羊飼いたちへの天使のメッセージにつながる。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(11節)と告げる。預言者によって約束として予告された救い主である「みどりご」の誕生の実現の告知である。その男の子自身が光を発する存在であるところに、預言の実現が表現されている。地上の暗い小屋の飼い葉桶に横たわるところに人としての誕生が示されると同時に、自ら光を発する存在であるところに神の御子であることが示される。イエス・キリストの本性に関する神学的理解の表現意図があるのであろう。 そして、幼子の裸の姿は、やはり十字架上で自分自身をささげるイエスの姿にもつながる。この点は、降誕・夜半の第二朗読箇所であるテトス書2章11-14節とともに味わうことができる。「キリストがわたしたちのために御自身をささげられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖(あがな)い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清められるためだったのです」(14節)。 降誕とは、単にイエス誕生の経緯を記念するだけでなく、つねにまことの神でありまことの人であるイエス・キリストの救い主としての全生涯、特にその死と復活、すなわち過越の神秘を併せて記念するものである。降誕祭もミサで祝われることに、その紛れもないあかしがある。降誕の夜、闇夜に光の子が生まれた降誕のこの夜は、十字架上で死んだイエスが復活に至るときに通過したあの夜、復活を待ち、迎える夜に重なっていく。徹底して、夜の闇、死の陰を通り抜けていく主イエスの復活に至る過越の夜を、その核心において記念し祈る降誕の夜である。 |