2024年12月29日 聖家族 (C年) (白) |
両親はイエスが学者たちの真ん中におられるのを見つけた(福音主題句 ルカ2・46より) 学者たちの中の少年イエス アルフォンソ10世に献呈された歴史書挿絵 スペイン マドリード エスコリアル図書館 13世紀 聖家族に対する崇敬自体は近世17世紀から浮かび上がり、そこからこの祝日も生まれているが、現在のA年B年C年各年の福音朗読は、イエスの幼年時代についての重要なエピソードを見事に配置している。すなわちA年はマタイ2章13-15、19-23節で聖家族のエジプトへの避難とそこからの帰還の出来事、B年は、ルカ2章22-40節の幼子の神殿奉献、そしてきょうがそれであるC年は、ルカ2章41-52節の神殿における少年イエスの姿を物語る箇所である。このような福音朗読配分によってイエスの生涯の始まりに関する聖書の主な箇所が十分に読まれることになっている。 表紙絵は、挿絵として本文の間に置かれている。福音朗読箇所の主要な要素がどのように描かれているのかを見てみよう。場面の中央の柱の(向かって右)に少年イエスが立っている。白い内衣と薄青の外衣で、すでに周りの学者たちと同様の衣装をまとっている。ルカでは「学者たちの真ん中に座り」(2・46)とあるが、ここでは立っている。学者たちが皆腰掛けていて、その真ん中で少年イエスは上からいわば見下ろす位置関係に当たる。すでに学者たちを教える存在という描き方である。 画面の(向かって)左にいるのは、ルカでは「両親」(2・41、42、43、48、50、51)とたびたび繰り返されているマリアとヨセフである。ちなみに、ルカのこのエピソードには、「マリア」「ヨセフ」といった名は出てこない。イエスの周りに四人の人々が囲んでいる光景は、「(両親は)三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた」(2・46)にあたる。両親に向かって少年イエスは、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(2・49)と語る。「自分の父の家にいる」ということばにもちろん特別な意識、御父の独り子である、というイエス自身の自覚(あるいは教会の信仰的理解)がここで示される。そう考えていくと、画面の中のイエスの顔がマリアとヨセフのほうに向かっているようにも見えてくる。 この場面の全体の場は一種の建物のように表現されている。(向かって)右側には祭壇が見えるが、これを含めて全体はエルサレムの神殿を暗示し、その境内を示すものであろう。 このエピソードはさまざまな暗示に満ちている。このとき両親は、過越祭であるとしてエルサレムに旅をする慣例に従う。それは12歳のイエスも伴うものだった。帰路に着く両親に対して、イエスはエルサレムに残る。両親が必死で捜した(44節)ところ、「三日の後」(46節)、上述のようにイエスが学者たちとともにいるのを発見する。この「三日の後」は、イエスの復活について語られることを思い起こさせ(マルコ8・31、9・31など)、過越祭のときのエルサレムの出来事であるイエスの受難と復活を予示していることとして見ることができる。 それゆえに、イエスのことばの意味がすぐには分からなかった両親だったが、ナザレに戻ったあと、「母はこれらのことをすべて納めていた」(ルカ2・51)とあり、この出来事を心に留めていく姿が印象深い。実は、マリアが「すべてを心に納めて」いる様子は、降誕への言及の直後に出てくる。降誕、そして羊飼いたちの告げ知らせについて述べたあと、ルカ2章19節では「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思いを巡らしていた」とある。イエスの誕生の意味について、「心に納めて、思いを巡らす」マリアは、ここの少年イエスのエピソードでは、何かに向けて心に納めておれるのか。ここでイエスの受難についてエピソードに向かうにちがいない。 自分の家にいると言うイエス。そのようにして神の御子であることを明らかにする、イエスのことばとその様子(学者たちとも討論できる学識と知性を備えていること)を描くこの絵も、さりげなく、少年イエスの存在をより権威あるものとして描こうとしているだろう。この場面とともに、きょうの場合、重要なのは、第二朗読の一ヨハネ書3章1-2,21-24節である。それこそは、わたしたち(キリスト者)が神の子であることと、しかし、「御子が現れるとき、御子に似たものになるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(一ヨハネ3・2)。そのために守るべき神の掟があり、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(同3・31)と告げられる。神の子と呼ばれるキリスト者は、終末における神の御子キリストの来臨において御子をありのまま見ることを目指して、愛の掟を実践する人ということになる。 御子をありのまま見ることができることを予示するかのように、両親は、三日の後に、神殿の境内で学者たちの真ん中に座っているのを見つける。その両親に対するイエスのことばは、心配して必死で捜し回ったことに対する咎めや戒めではないのだろう。それ両親の子どもに対する愛にあふれる行動だったはずだからである。父の家に無事にいるイエスの姿を見つけたことのうちに、両親に対する神のいつくしみを感じてもよいだろう。神の計画のうちに選ばれた両親ヨセフとマリア、そして子どものイエスの関係性のうちに、神の家族の姿が示されているものとして受けとめてみたい。 |