2025年1月26日 年間第3主日(神のことばの主日) C年 (緑) |
この聖書の言葉は、今日 あなたがたが耳にしたとき、実現した(ルカ4・21より) 教会の師である全能者キリスト モザイク ギリシア オシオス・ルカス修道院聖堂 11世紀 主日のミサの聖書朗読C年の特徴であるルカ福音書の朗読がきょうの年間第3主日から始まる。この福音書の序文1章1-4節とともに、4章14-21節である。イエスは、安息日に故郷ナザレの会堂に入って聖書朗読の務めを果たそうとしてイザヤ書の巻物を開く。ユダヤ教の礼拝慣習に従っていたわけだが、預言者イザヤのことばに対して、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と話し始めることによって、ここでイエスは全く新しい宣教を開始する。その後に展開されるイエスの行動と宣教は、すべて聖書(神の計画の告知としての旧約聖書)の実現となっていくが、そのことが最初に宣言される瞬間である。 そこで、イエスは新しい預言者として語るのではない。神の御子、すなわち神としての権威の顕現がここにある。そのことをあかししていくのが福音書である。この展開を考える意味で、表紙絵には全能者(パントクラトール)としてのキリストを、しかも教会の教師として映し出すイコンが掲げられている。左手に神のことばの象徴である書物を抱えるのは、イコンのキリスト像の定型だが、このイコンの場合、右手が前に向けられておらず、神のことばのほうを指し示しているところがユニークである。「神のことばの主日」と呼ばれる年間第3主日に際して仰ぎ見るのにふさわしいキリストの姿であろう。 それは、死と復活を経て父の右の座におられる全能の主としてのキリストの姿である。その姿は、しかし、ルカ福音書が順序立てて述べていくイエスの生涯のこの最初のほうの場面にも示されていると見るべきだろう。会堂のイエスの姿とそのことばのうちにも、受難と死、復活と昇天までの生涯の歩みが先取りされている。そのことを見事に示すのが、ここでイエスの目に留まったこととして紹介される預言者イザヤのことばの引用である。 ここに示されているイザヤ書の箇所は61章1-2節である。イザヤ書自身の箇所では「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。主が恵みをお与えになる年、わたしたちの神が報復される日を告知して、嘆いている人々を慰め(……[る]ために)」となっている。ルカでの引用を見ると、ここに42章7節の「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷(かせ)から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」や58章6節の「虐げられた人を解放し」などの表現も組み合わされているのがわかる。 イザヤ書の文脈では、主の僕(しもべ)の召命(42章)や預言者自身の召命(61章)との関係で語られている内容が、ルカでの引用においては、イエスがこれらを自分自身に対することばとして、その実現を告げている。そこで、自分が救い主(メシア=油注がれた者)であることが暗に示される。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4・18-19)。イエスが「キリスト」(メシア)であり、彼がもたらすものが神の国の福音であることを、すべての表現で明らかにされる。キリスト教の信仰と宣教の出発点を鮮やかに示すルカ福音書の箇所である。 ちなみに、ルカによるイザヤの預言の引用句の末尾に「主の恵みの年」という語句がある。イザヤ書では「主が恵みをお与えになる年」と語られるこの年は、50年ごとに負債が免除され、奴隷が解放されるという、いわゆる「ヨベルの年」を指す(レビ25章、申命記15章参照)。この伝統は、キリスト教の「聖年」の慣習の由来の一つとなっている。ローマ教会では、1300年に時の教皇ボニファティウス8世がこの年を罪の赦しの年「聖年」とし、その後、後続の教皇たちによって、50年ごと(1343年)、25年ごと(1470年)の慣習となった。1500年には聖年に関する儀式や諸規定が現代にまで続くものとして定められる。巡礼などの一定の実践を条件として、全免償(罪の償〈つぐな〉いの全面的な免除)が与えられるという趣旨の年である。 今年2025年は25年ごとの通常聖年にあたり、ローマでの聖年の開幕(去年の12月24日)に続いて、各教区での聖年実践、指定巡礼教会への巡礼が12月29日(聖家族の主日)に始まっている。今年は年間主日のミサとともに、あらためて、キリストのことばを拝聴し、その宣教の歩みに従う覚悟と態度をもって過ごすことが求められる。イコンのようなキリストの姿をいつも心の中で仰ぎ見ることからもその力は養われていくだろう。 |