2025年2月9日 年間第5主日 C年 (緑) ![]() |
![]() イザヤの召命 「聖母マリアについての説教」写本 パリ国立図書館 12世紀 表紙絵は、きょうの第一朗読箇所であるイザヤ6章1-8節に基づく(朗読では2節の後半は省かれている)。中央に座している主である神は、セラフィムが賛美している光景が中央から奥に描かれ、前景では、神の召命を受けてこの光景全体を見ているイザヤ(イザヤ6・1参照)あるいは、ここで「主の御声を聞いた」イザヤ(6・8参照)が(向かって)右に、そしてセラフィムのひとりが炭火の火をイザヤの口に触れさせている光景(イザヤ6・7)が左に描かれている。 主の座が「高くに天にある」(6・1)と記されていることには、主の座の上を覆う幕に天体(太陽と月)が描かれることで対応していると思われる。しかし、この幕の下に描かれるおびただしい天使の顔が何を意味しているのかは分かりにくい。イザヤの箇所との関連を探るなら、「主の栄光は、地をすべて覆う」(6・3)と賛美される地のすべての天使の表現かもしれない。あるいは、これから預言者イザヤが派遣される先の神の民イスラエルの天使のことなのかもしれない。 このイザヤの召命の場面における一つのポイントは、セラフィム(2節後半で「六つの翼を持ち、二つをもって顔を覆い、二つをもって足を覆い、二つをもって飛び交っていた」と記される)が「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(3節)と賛美するところにある。 そして、主の現れを前にしてイザヤはその絶対的聖性を前に自らの汚れを痛烈に自覚して、「災いだ。わさしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(5節)と告げる。これに対して、セラフィムのひとりが炭火の火を口に触れさせることで清め、「あなたの咎(とが)は取り去られ、罪は赦された」(7節)と宣言する。このように、神との出会いは、人に絶対的聖性の前での自らの汚れや罪の意識を呼び起こすが、それに対して神はその人を清め、赦し、預言者としての使命に向けて派遣することになるのである。これも大きなポイントである。 こうした経過によって、イザヤの箇所は、きょうの福音朗読箇所であるルカ5章1-11節におけるペトロの召命の出来事の前表(予型)となっている。それは、ゲネサレト湖(ガリラヤ湖)畔における最初の弟子たちの召命である。ここでは、不思議な大漁のエピソードが組み合わされている。イエスが「沖に漕(こ)ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(5・4)といったことば通りにしたら、本当におびただしい魚がとれたという一種の奇跡が起こる。ここで、ペトロはイエスの絶対的聖性を感じ取り、「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』」と告げる(ルカ5・8)。ペトロの態度は、イザヤ6章のイザヤの態度と共通する。これらを重ね合わせて読むことで、ペトロが叫ぶ「主よ」というイエスへの呼びかけは、絶対的な神なる主に対する信仰告白であることが明らかになるのである。 ちなみにヨハネ21章1-14節が記す、復活したイエスとの出会いにおける不思議な大漁のエピソードもとてもよく似ている。それは、復活後の再度の(決定的な)召命の出来事と言えるだろう。そう考えながら、きょうの第二朗読箇所を見ると、それは、一コリント書15章によるキリストの死と復活、そして復活したキリストがケファ(ペトロ)をはじめ12人の使徒や500人以上の弟子たちにも現れたことを証言する箇所である。救いの歴史の中における預言者イザヤの召命――イエスの宣教の始まりにおける最初の弟子たちの召命――復活したイエスの現れによる再度の決定的な弟子たちの召命が、すべて重なり合いながら告げられるのがきょうの聖書朗読の妙味である。 さらに言うならば、キリストの死と復活を記念する感謝の祭儀(ミサ)は、いつも我々に対する召命と派遣を含んでいる。イザヤを呼び出した主である神は、今ミサの中で、キリストにおいて我々に出会われる。我々は、セラフィムの賛美に結ばれた「感謝の賛歌(サンクトゥス)」をもって「聖なる、聖なる、聖なる神、すべてを治める神なる主。主の栄光は天地に満つ。天には神にホザンナ。主の名によって来られるかたに賛美。天には神にホザンナ」とキリストを賛美する。召命を受ける側の抱く汚れや罪の自覚と、それに対する神のゆるしも我々はミサの中で体験している。「いつくしみの賛歌(キリエ)」「栄光の賛歌(グロリア)」「平和の賛歌(アニュス・デイ)」は、そのような心理体験そのものを含んでいるのである。きょうの聖書朗読は、その意味で、感謝の祭儀の意味に深く関係していると言えるし、そのように黙想すべきものであろう。 |