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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2025年3月23日 四旬節第3主日 C年 (紫)  
神は柴の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた(出エジプト3・4より)

燃える柴の前のモーセ
ドメニコ・フェーティ作
オーストリア ウィーン美術史博物館 17世紀初め

 きょうの第一朗読箇所である出エジプト記3章1-8a節、13-15節にちなむ近世バロック期の絵画が掲げられている。モーセが神の山ホレブに来たとき「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた」(2節)。そこで、火が燃えているのに柴が燃え尽きないという不思議な光景に出会い、モーセはそれを見ていることにした。すると、神がモーセに声をかけ、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5節)と告げる。このことばに応じて履物を脱いだ場面を描いているのがこの絵である。モーセに対して神の自己啓示がなされるこの重要な場面について、モーセが履物を脱ぐシーンをもって表現される伝統がある。それに連なる近世絵画である。
 作者ドメニコ・フェーティ(Domenco Feti)は1589年頃ローマに生まれ、1623年ヴェネツィアで没した画家(フェッティ Fettiとの綴りもある)。1613年、マントヴァに出向く。マントヴァという町は、あの有名なルーベンスがマントヴァ公、ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガに招かれて8年間仕え、聖堂を飾るさまざまな絵画を残した町であった。フェーティは、この作品を学び、自らも聖堂のために聖書に主題を取った絵画を残していく。そして、自らのうちにルーベンス的な表現と、16世紀後半のヴェネツィア派の特徴を結びつけた、自由で流麗な筆致と大胆な色彩を用いた表現をものにしていったという(小学館刊『世界美術大事典』参照))。この作品にも近代絵画らしい力強い写実的な描写力が感じられよう。
 とくにこの場面については、神が形をもって描かれることはない。モーセの姿を照らす光、そしてモーセが真っ直ぐに視線を向ける先に神の臨存があることを、出エジプト記の叙述とともに感じとっていくことがここでは重要である。
 ここでの主のことばはきわめて雄弁である。たくさんのことを語る。その中で、14節の「わたしはある。わたしはあるという者だ」という自己表明のことば、古来、神についてどのように考え、語りうるかを考える神学において重要な命題となっている。日本語を素直に読めば、「ある」ということをもって本質とするという意味で、存在そのものとしての神の本質開示と理解できるだろう。この点に関しては、カトリック神学の長い伝統が積み上げられてきていることは周知のとおりである。現代では、ヘブライ語のニュアンスを考えて論じる新たな神論もある。
 この命題だけを抜き出して考えていくことも意味があるが、出エジフト記の文脈では、繰り返し自らを「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(6節、15節)である主だと自らをあかししているところがやはり重要で、神による召命を受けた父祖たちの歴史を継いで、今、苦難を受けているイスラエルの民を救い出し、その使命のために導き出すという、歴史の中での実現力に関して告げられている「わたしはあるという者」という点が重要なのだろう。その神がモーセを今、派遣するのであり、その歩みに絶えずともにいる存在となっていく。歴史の中で神に従う人を導く、その人といつもともにいる神であることを考えつつ「わたしはあるという者」というメッセージを受けとめ、味わう必要がある。
 このような神のありさまとそのわざを思い、神を賛美するのが、きょうの答唱詩編である。答唱は「心を尽くして神をたたえ、すべての恵みを心にとめよう」(103・1-2節、典礼訳)。――詩編部分の第二連(詩編103・6-7)は「神は正義のわざを行い、しいたげられている人を守られる。神はその道をモーセに示し、そのわざをイスラエルの子らに告げられた」(典礼訳)。このことを思うときに、人はおのずと回心へと導かれるものだろう。
 きょうの福音朗読箇所ルカ13章1-9節では「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(5節)、第二朗読の一コリント書10章1-6、10-12節では「不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました」(10節)と、悔い改めを呼びかける訓戒の響きが強い。しかし、その前提において、なによりもまず神ご自身が民を、恵みをもって導いてくれているということが絶えず教えられている。きょうの福音朗読前の詠唱もマタイ4章17節に基づいて、このような関係性を端的に示している。「神に立ちもどりなさい。『神の国は来ている』と主は仰せになる」と。
 「わたしはあるという者だ」――出エジプトの神のことばは、「神の国は来ている」の意味をあかしする一つの言い方であるにちがいない。今風にいえば、「あなたとともにわたしはいつもいるのだよ」、「いつもいることが神だということなのだ」と語りかけているのではないだろうか。「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように」――感謝の祭儀を締めくくるこの派遣の祝福にも、モーセへの語りかけがより充満したかたちで流れ込んでいる。燃える柴の前で履物を脱ぐモーセは、神の聖性の前に畏れとともに喜びと勇気で満たされる我々の姿を写し出しているといえる。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年)●典礼暦に沿って』四旬節第3主日 C年

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