2025年3月30日 四旬節第4主日 C年 (紫) ![]() |
![]() 放蕩息子の帰宅 ポンペオ・パトーニ作 ウィーン美術史美術館 1713年 きょうの福音朗読箇所は、ルカ福音書15章1-3、11-32節。イエスによる、いわゆる放蕩息子の譬えの箇所である。財産を十分に持っている父親には、二人の息子がいて、その弟のほうが父親からもらった財産を全部金に換えて旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、浪費した(15・11-13参照)ことから話が動いていく。弟は食べ物に困り、飢え死にしそうになったとき、父親のもとに行って、自分は罪を犯して、もう息子と呼ばれる資格がないと正直に言おうと決意して向かう。すると、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(15・20)。決意したとおり弟は父親に告白すると、父親は最高のもてなしと祝宴をもって迎える。ここまでが前半である。このあと、兄の怒りが描写されたあと、それに対して、父親は「弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」と言ったことばで、この話は終わる。有名な譬え話のあらすじである。 きょうの朗読箇所では、15章での4-10節が省かれた構成だが、この部分の4-7節には「見失った羊」の譬え(100匹の羊のうち、見失ったたった一匹を捜し回り、見つけた持ち主が喜びを語る話)、8-10節には、「無くした銀貨」の譬え(十枚の銀貨を持っていた女が、その中の一枚を捜して見つけたときの喜びが語られる話)がある。いずれも一つの罪人の悔い改めに対して天には大きな喜びがあることの譬えと説明されている。これらと同じ趣旨の長い譬えが、放蕩息子の譬えなので、主題に添う意味で、「失われた息子の譬え」と紹介されることもある。 表紙絵作品は、この話の中の一つのクライマックスである「父親が息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」場面を大きく描き出している。 話の展開、その推移に沿って一コマずつ表現しようとするような手法ではなく、一つの感動ポイントに集中して、クローズアップするのは、映画的な手法とも言えよう。父親と息子の気持ちにより近く迫り、その心情への想像や共感に鑑賞者をいざなおうという意味で、近代的感覚があふれている。 作者ポンペオ・バトーニは18世紀のイタリアの画家。1708年、イタリアのルッカに生まれ、1727年からローマで活躍し、同地で1787年に逝去。ラファエロや古代の画家、17世紀の古典主義の絵画の研究に努め、とくに宗教界、世俗界の人物の肖像画やキリスト教絵画、神話画などを数多く手がけた画家である。裕福な父親の様子、衣も失い、父に頼るしかなくなった弟。手を合わせ、目を閉じて、父親の胸によりすがる姿は、福音書の叙述からの自然な想像と言えるだろう。 イエスの譬え話において、もちろん、この父親と弟の姿は、父である神と心から悔い改める人との関係の具象化である。この絵から、そして、ルカ福音書15章で譬えをもって語るイエスの気持ちとことばを聞き取り、神と自分自身との関係へと思いを向けていくことが、福音書本文からも、この絵画作品からも我々は呼びかけられている。 悔い改める人をだれ一人も見捨てることはしない神、神自身のほうからその人を迎えに来るという様子、しかも最大の喜びをもってもてなす神のことが存分に語られる譬えである。罪を告白しようという気持ちへの動き自体にも神の計画があったのにちがいない、というほどに、回心ということの源には神自身がいる、ということが深く教えられる。それが神のあわれみであり、神のいつしくみなのだろう。 この父親の「憐れに思い」ということばは、典礼の祈りにおけるあわれみ豊かな神、いつくしみ深い神への賛美と直結する。 このような福音朗読とのつながりで、知っておきたい祈りの一つに第四奉献文がある。「聖なる父、偉大な神よ、あなたをたたえます。あなたは、英知と愛によってすべてのわざを行われました。ご自分にかたどって人を造り、造り主であるあなたに仕え、造られたものをすべて治めるよう、全世界を人の手におゆだねになりました。人があなたにそむいて親しい交わりを失ってからも、死の支配のもとにおくことなく、すべての人があなたを求めて見いだすことができるよう、いつくしみの手を差し伸べられました。……時が満ちると、あなたはひとり子を救い主としてお遣わしになりました」――見失われた人の回心を引き起こし、その立ち帰りを求める神のみ旨は、究極的にひとり子イエス・キリストの派遣、そして、言うまでもなく、その十字架において極まる。 このような関連を考えるとき、きょうの第二朗読箇所である第二コリント書5章17-21節の内容が身近に受けとめられる。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです者」(17節)。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(18節)――回心の呼びかけからキリストに結ばれた者として、神によるゆるしと愛を人々に伝える使命がある、というより積極的なメッセージに展開している。 放蕩息子の譬えにおける見失われた息子を歓待する父の喜びの祝宴は、新しい使命が息子に授けられる機会となったのではなかろうか。話の顛末は語られないが、この祝宴が象徴する感謝の祭儀は、いつも、今我々をキリストの使者とする派遣の出来事であることは確かである。 |