2025年4月20日 復活の主日 (白) ![]() |
![]() ウジェーヌ・ビュルナン画 パリ オルセー美術館 1889年 復活の朝を印象づける絵といえよう。伝統的な復活の朝の絵は、イエスの墓と、女性たち、天使たちを描くことで、もう墓にはいない、死が乗り越えられたというところで、イエスの復活を暗示するもの、また中世後期からは、復活したイエスの姿を絵画的に具象化して描くものも登場する。 それに対して、この絵は、走る二人の弟子、ペトロともう一人の姿をクローズアップするという動的な場面で、復活の主題を浮かび上がらせる。映画的な描写といえる作品といえる。 作者は、近代スイスの画家ウジェーヌ・ビュルナンという人(生没年1850~1921)。雑誌の挿絵や版画、そして油絵などの作品を残す。この絵も代表作として紹介されることが多い。 ここでは、福音書の伝える復活の朝の出来事を黙想するきっかけをこの絵から受けとることにしよう。復活の朝は、四つの福音書のすべてが触れている。墓に行く、女性たちのことが言及されるが、その中で共通なのはマグダラのマリアである。そしてこの復活の主日(日中)のミサが読まれるヨハネ福音書20章1-9節でマグダラのマリアは単独で言及される。イエスの復活に関する箇所で、一つに注目されるのはマグダラのマリアであることは、興味深くまた重要である。 そして、マタイ(28・1-10)、マルコ(16・1-7)、ルカ(24・1-12)において彼女を含む女性たちは、天使のお告げや促しを受ける人としてそこにいる。いわば受け身の存在である。それに対して、ヨハネ福音書では、マグダラのマリアは非常に積極的に行動する。彼女は「墓から石が取りのけてあるのを見た」(ヨハネ20・1)だけで重大な事が起こっているのを察知し、そのことをペトロと「もう一人の弟子」のところに走って行って伝える。それに対して、ペトロと「もう一人の弟子」もすぐに反応する。二人は、外に出て墓へ向かって走っていく。この走っていくプロセスについても、ヨハネ福音書の描写は細かい。「もう一人の弟子」のほうが、「ペトロより速く走って、先に墓に着いた」(4節)というのである。 絵を見ると、手前に髭を生やした壮年男性がいる。これはペトロであろう。その前に白い衣を来た、より若い青年男性が描かれている。これが「もう一人の弟子」の描写になっている。より速く走っている瞬間である。 このようにヨハネ福音書は、墓が空になっていることの重大さを感じた、三人の人物の「走った」行為に注目し、また強調している。このことをよく読むとき、そして、その三人の気持ちを推察するとき、十字架で死んだ方が「死」を超えていることを極めて強い臨場感をもって受けとめることができる。 日々よく生きることを「歩む」と表現し、人生の足跡や歴史を「歩み」と呼ぶことがある。そこにある一定の日常性、連続生が表現されている感じがするが、それに対して「走る」「走り」とはどのような意味を強調するであろう。ある種の唐突さ、意外性、非日常性なのではないか。三人の歩みは、「墓から石が取りのけられてある」ことへの反応で、自分自身の動機から生まれたことではなかった。とはいえ、皆、意志をもって走っていったのである。この瞬時の反応の中に、キリストの復活という出来事と、それに対する信仰の行動が凝縮して含まれている。ここで彼らのうちに起こったことが、すべての弟子たちの共同体、すなわち教会の信仰となっていく。我々の信仰そのものの発生の瞬間がヨハネ福音書ではまさに「走って行った」に示されている。一人ひとりのいつもの「歩み」は、神のみわざによっていったん途切れられ、そこから新たな「歩み」が形成されていくのである。 教会生活の中で、我々は現実に走ることはないかもしれないが、心の中で、復活の出来事にとらえられて、驚嘆と喜びに満たされて動く心の「走り」を内的に体験することは大切であろう。表紙絵の鑑賞が、そのような黙想のきっかけになれたら素晴らしい。 |