2025年5月4日 復活節第3主日 C年 (白) ![]() |
![]() 不思議な漁 手彩色銅版画 原田陽子(大阪高松大司教区) きょうの福音朗読箇所はヨハネ21章 1-19節(短い朗読の場合は1-14節となる)。全体は、三つの部分からなる。冒頭の1節は、「ティベリアス湖畔」つまりガリラヤ湖畔での、復活したイエスの現れの次第を語るとの導入文。続いて1-8節はいわゆる不思議な大漁のこと、9-14節は陸に上がってから復活したイエスと弟子たちがパンと魚を食べる朝の食事のこと、続く15-19節は、その食事が終わってからのイエスとペトロとの対話のことである。どれもが印象深い話だが、この中で積極的に行動し、発言するのがペトロである。 表紙絵は、一見してわかるとおり、この1-8節の場面に基づく描写である。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた」(4節)――この描写が美しい。明け染める空、夜明けの太陽の輝き、それが反射する湖面の揺らぎ……これらによって、イエスの復活と、夜明けというものの意味のつながりが強調される。復活の喜びの雰囲気がにじみ出てくる。 この絵では、すでにイエスが「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(6節)と言ったのち弟子たちが「そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」(同)に対応する。このエピソードの初めに、ペトロが「わたしは漁に行く」と言うと、他の弟子たちも「わたしたちも一緒に行こう」というというくだりがある(3節)。ペトロが漁師であるこの一団のリーダーであることがよく示される。そしてまた網でとりきれないほどの魚がかかったあと、「イエスの愛しておられたあの弟子」(ヨハネとされる)がペトロに「主だ」と言うと、ペトロはそれを聞いて、「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(7節)。話としての興趣の中心である。岸にいる方が復活した主イエスであることがわかって飛び込むのは、まさしく信仰告白の行為である。 実は、この不思議な大漁によく似た話がルカ5章4-11節にある(今年=C年の年間第5主日の福音朗読箇所でもあった)。これは、ペトロおよびゼベダイの子ヤコブとヨハネの召命、ルカ福音書における最初の弟子たちの召命のエピソードである。ここでは、ペトロはイエスの足もとにひれ伏して「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5・8)と告白する。聖書学的には、このルカのエピソード自体ももともとはガリラヤにおける復活したイエスの現れの伝承だったらしいとされている。いずれにしても、復活したイエスとの出会いが弟子たちにとっては第二の、そして真の召命の出来事であるということを考えていくべきだろう。ヨハネ福音書21章のここでのペトロの「主よ」も、復活したイエスとの出会った弟子たちの心を代表する信仰告白である。 さて、ヨハネ21章9節からは場面が変わる。弟子たちが陸に上がると炭火が起こしてあり、その上に魚がのせてあり、パンもあった(9節参照)。表紙絵にも、これに続く場面を予告するように炭火の上に網がありそこに魚がのっている。その横には焼かれたパンの入った器もある。ここでの食事の詳細は、この21章では語られていないが、ヨハネ福音書6章1-15節のエピソード(「五千人に食べ物を与える」)が想起される。そこに続く6章におけるイエスの「命のパン」についての説教(6・26-58参照)も、今、復活したイエスの教えとして聞くことがふさわしい。復活したイエスとの出会いは、生きていたときのイエスとの出会いやその教えがすべて回復させるものであり、その真の意味を悟らせるものとなっているのである。 さらに21章15節から19節は、イエスとペトロの問答である。イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と三度尋ね、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と信者の司牧の使命を三度告げ、三度命じ、最後にペトロがどのような死に方をするかを示し「わたしに従いなさい」と言う。ペトロの召命と派遣の決定的な場面である。 このように、ヨハネ21章1-19節には、キリストに関する啓示、主と弟子たちとの関係(交わり)の諸相が示されているが、それは、キリストと我々の関係に対する暗示にも満ちており、感謝の祭儀、ミサの意味にもつながってくる。その感謝の祭儀(ミサ)の交わりの儀(聖体拝領)は、復活したキリストとの交わりの継続である。朝の食事とともに生まれつつある弟子たちの主と交わりは、今ミサを通して、教会において生き生きと続けられている。 |