2025年10月12日 年間第28主日 C年 (緑) ![]() |
![]() いやされたサマリア人とイエス エヒターナハ朗読福音書挿絵 ドイツ ニュルンベルク博物館 11世紀 10世紀から11世紀にかけての、いわゆるオットー朝写本芸術を代表するものの一つである。エヒターナハとは地名で、表紙絵でもたびたび紹介されているエグベルト朗読福音書を生み出した都市トリーアのやや北西に位置しており、そこの修道院の写本工房で作られた朗読福音書の挿絵の一つがこれである。 描かれているのはきょうの福音朗読箇所ルカ17章11-19節のエピソード。これを二つの連続画面で描いているうちの後半の図である。前半では、重い皮膚病を患った10人の人が揃ってイエスに助けを求めて手を差し伸べ、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(ルカ17・13)と叫んでいる様子。それを受けて、イエスが彼らに「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(同14節)と指示している様子が一つの画面で描かれている。表紙に掲げられている後半の図は、その中のサマリア人が「イエスの足もとにひれ伏して感謝した」(同16節)という様子を中心に描いている。朗読箇所の最後の節で、イエスはこの人に向かって「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(同19節)と告げる。救いの宣言、解放の宣言、そして派遣と祝福の告知にほかならない。 ルカ福音書は、ユダヤ人社会の中で疎んじられていたサマリア人が神のみ心に応える態度を示したこの場面を通して、民族や宗教の隔たりを超えて、あらゆる人がただ「信仰」のみによって神と出会い、救いの恵みにあずかるというイエスによる救いの意味を語っている。この信仰という言葉には、その人の神に対する忠実、誠実という意味が含まれていることは、前週(年間第27主日 C年)の解説でも考えたことなので参照していただきたい。 自分の病のいやしがなによりも神から来るものであることを悟り、神を賛美する心をあふれさせたこのサマリア人は、神のいのちの息吹で満たされているだろう。絵の背景が全面的に緑色になっているところに、そのことが感じられよう。サマリア人の地面にひざまずいて全身をかがめている姿勢と、イエスに背を向けて去って行こうとしている人たちの対比が鮮やかである。イエスの顔と右手は去って行く他の男たちに向かっているようである。この部分は、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。……」(ルカ17・17)の問いかけに対応しているようである。しかし、イエスの左手は下でひざまずいている男に対して、彼の心を受け入れ、祝福しようとしている姿勢にも見える。上述の「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(同19節)の宣言がこの手の動きの中で始まっているようである。 この出来事を通して、イエスが体現する神の救いのわざは、契約と律法を授かった民イスラエルと異邦人の民の区別を超え出ていく。それは、全人類、あらゆる人々を救う神のみ旨とその力の実現である。そのような意味合いを考えるために、第一朗読箇所の列王記下5章14-17節は、シリア人ナアマンに起こる病のいやしのエピソードを語る。それは、思い皮膚病のいやしという意味で、福音朗読の内容ともつながるが、それ以上に、神の救いは、イスラエルの民の他にも及ぶことのしるしがここにあるという例である。神のことばを仲介する預言者の言葉に従う誠実な態度の上に救いが実現し、それを受けた人は、そのまことの神を礼拝する者となっていく。 こうして、第一朗読と福音朗読を重ね合わせると、神に対して誠実な信仰をもって生きる者に対する救いの約束と実現、そのことを体験した人の神への賛美と礼拝の始まり、そのような生き方に向けての派遣が語られている。そしてこのような出来事を語り続けることは、普遍的な救いの源である神とともに生きること、それを示してくれたイエス・キリストとともに生きることへの力強い招きとなる。それは、まぎれもなく喜びであり、イエスの「立って行きなさい」には、祝福と喜びがあふれている。まさに福音である。 福音朗読に登場するサマリア人の行いと態度を通して、ミサの雰囲気が感じられてくることに気づいただろうか。「わたしたちを憐れんでください」(ルカ17・13)という叫びは、「主よ、いつくしみをわたしたちに」というミサの賛歌で繰り返されるフレーズと通じている。そして、最後にイエスが告げる「立って行きなさい」は、ミサの最後の派遣の言葉「行きましょう、主の平和のうちに」に通じている。この「行きましょう」と訳されているラテン語原文は、直訳すると「あなたがたは行きなさい」というはっきりとした命令的な宣言である。ミサで祈る、諸民族の中から招かれた我々のひな型ともいえるのがこのサマリア人であり、彼とキリストとの出会いである。我々も、同じように、ミサを通して、キリストに触れ、キリストとともに生き(第二朗読箇所 二テモテ書2・8-13参照)神の救いを実感し、神への賛美と礼拝へと招かれている。 サマリア人と比べつつ、自問自答することが大切かもしれない。我々は、日々、どのような“病”からいやされ、神を賛美しているのだろうか。我々の日常の生き方に対して、鋭く問いかける福音朗読であり、またミサ=感謝の祭儀に対する我々の参加の姿勢をも深く問いかけている。 |