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聖書と典礼

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『聖書と典礼』表紙絵解説 (『聖書と典礼』編集長 石井祥裕)
2025年11月23日 王であるキリスト C年 (白)
あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(ルカ23・43より)

十字架上の救い主イエス
エグベルト朗読福音書
ドイツ トリーア市立図書館 980年頃

 年間最後の主日でもある「王であるキリスト」(祭日)のC年の福音朗読箇所は、ルカ福音書における受難叙述の中の23章35-43節である。なによりも、イエスと同時に十字架に付けられた犯罪人の一人が「イエスよ、あなたの御国においでなるときには、わたしを思い出してください」(42節)と言ったとき、イエスが「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)といった、大変印象深い、感動的な場面である。
 表紙絵には、この場面を味わうために、エグベルト朗読福音書の二段にわたるイエスの受難図が掲げられている。上段はイエスが十字架に向かう道での様子、下段が十字架に付けられときの様子である。イエスの受難について各福音書の要素が巧みに組み合わされている。上段の十字架に向かう道行の場面では、「シモンというキレネ人」が十字架を担いでいる(マルコ15・21、マタイ27・32、ルカ23・26参照。なおルカでは「イエスの後ろから運ばせた」となっている)。下段の場面に関して、イエスと一緒に二人の人が十字架に付けられたことは四福音書がともに言及するところである。その際、「強盗」(マルコ15・27、マタイ27・38)あるいは「犯罪人」(ルカ23・33)と記されるか、あるいは単に「ほかの二人」(ヨハネ19・18)と記される。これらの男のさらに両脇には、(向かって)右端に弟子(「愛する弟子」=使徒ヨハネとされる)と左端にマリアがいる(ヨハネ19・26-27参照)。十字架の上には、これも定型要素である、顔を隠した太陽と月が描かれている(マルコ15・33「全地が暗くなり」他並行箇所参照)。酸いぶどう酒をイエスに突きつける男(マルコ13・36参照)、「くじ引きをする兵士たち(マルコ15・24他並行箇所参照)も配置されている。
 十字架のイエスの表情も両脇の犯罪人の表情も、とても明るい。イエスの表情に後の十字架磔刑図あるような痛々しさはない。両手を広げているその姿は、あたかもすべての人に対して祝福を送っているようである。彼がまとう紫の衣も、この方の主として尊厳を示しているのである。絵の中の(向かって)左の男がイエスのほうに身体を向けており、まさにこの男の言葉として「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23・42)の言葉を重ねてみるのにふさわしい。彼がかけた言葉は「あなたの御国においでになるときには……」である。ここには、確かに「あなたが主権をもって治められる国」という理解が示され、イエスが神の国の主であること、神の右の座にあり、父である神とともに生きて治められることが告白されている。この人が、主であるキリストを信じているがゆえに、「王であるキリスト」の祭日の福音朗読主題句とされているのであろう。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)というイエスのことばは信仰告白をした人に対するはっきりとした救いの宣言にほかならない。
 ちなみに、「王であるキリスト」の祭日のラテン語名称を直訳すると、「天地万物の王であるわたしたちの主イエス・キリスト」の祭日ということになる。この意味は、集会祈願が語るとおりである。「全能永遠の神よ、あなたは、天地万物の王であるキリストのうちに、すべてが一つに集められるようお定めになりました。造られたすべてのものが、罪の束縛から解放されてあなたに仕え、栄光を終わりなくたたえることができますように」というものである。この地上の国々に並ぶようなイメージの神の国という領域の支配者というだけでなく、宇宙万物、全存在の主イエス・キリストに対する尊称としての「王であるキリスト」である、ということである。この壮大な展望の手がかりの一つが、顔を覆い隠す太陽と月であろう、古い宇宙秩序がイエスの死によって更新され、天地万物が新たに造られるようになる、そして母マリアと愛する弟子との対話を通しては、究極的には新しい人類が生まれることが暗示される。十字架上で語られる「御国」や「楽園」ということばには、宇宙的な広がりがあることも、また、考えなくてはならない。
 そのことに思いを向かわせるために第二朗読箇所がコロサイ書1章12-20節となっている。それによれば、御子はすべての被造物よりも先立って生まれた方であり(15節参照)。「万物は御子によって、御子のために」造られたこと(16節参照)。御子は万物より先に存在し、すべてのものを支えている(17節)。神が「万物をただ御子によって、ご自分と和解させられ」(20節)たことも、御子が「その体である教会の頭である」こと(18節)も語られている。救いの歴史の始まりでもあり、中心でもあることを語り、それをもって完成まで支え導いている方である御子は、まさしく、「見えない神の姿」である。「王」を地上の王のイメージで考えると、この祭日の意味がわかりにくくなる、天地万物の王である主キリストという意味で、「主」であることへの理解と思いを深めることが眼目であることを心にとめよう。この「主キリスト」こそ、ミサの中で「聖霊による一致のうちに、あなたとともに神であり、世々とこしえに生き、治められる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって」(集会祈願の結びより)という意味で、ミサの祈りを究極的にささげている方にほかならない。
 きょうの福音箇所をさらに深めるために

和田幹男 著『主日の聖書を読む(C年)●典礼暦に沿って』王であるキリスト

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